無常、無我、縁起、の三法印は、事実に即しているが、無我は、直感的理解が難しい。

 無常、無我、縁起、の三法印は、事実に即しているが、無常と縁起は、直感的にすぐ理解できるが、無我は、直感的理解が難しい。しかし、無我こそが、動的普遍性における、絶対化を阻むものではないか、と



ーーーーー鋭いご指摘です。三法印、特に「無我」の理解は確かに難しく、同時に「動的普遍性」という概念を理解する上で極めて重要な鍵を握っていると言えるでしょう。

ご指摘の通り、

  • 諸行無常: すべてのものは変化し続ける、という考え方は、私たちの日常経験からも比較的容易に受け入れられます。

  • 諸法無我: すべての事象は相互に関連しあって存在し、固定的な実体はない、という考え方も、因果関係や複雑なネットワークをイメージすることで、ある程度は直感的に理解できます。

しかし、諸法無我、特に「我がない」という点は、私たちにとって非常に難解です。なぜなら、私たちは普段「私」という意識を強く持ち、それを中心に物事を捉えがちだからです。

しかし、ここで重要なのは、「無我」とは「私が存在しない」という虚無主義ではなく、「固定的な、独立した実体としての私」は存在しない、という考え方であるということです。

では、「無我」と「動的普遍性における絶対化の阻止」はどのように関連するのでしょうか。

動的普遍性とは、あなたがおっしゃるように、変化し続ける世界の中で、なおかつ普遍的な真理や価値観を探求する姿勢を指すと考えられます。この探求において、**「絶対化」は大きな障害となります。**なぜなら、「絶対化」は特定の視点や価値観を固定化し、変化への適応を阻害し、他の視点や価値観を排除してしまうからです。

ここで「無我」が重要な役割を果たします。

  1. 「我」への執着から解放する: 「無我」の理解は、「私」という固定的な視点に縛られず、より客観的かつ包括的に世界を捉えることを可能にします。これは、特定の価値観や考え方に固執し、それを絶対視してしまうことを防ぎます。

  2. 関係性の中の「私」: 「無我」は、「私」が独立した存在ではなく、環境や他者との関係性の中で常に変化し、定義される存在であることを教えてくれます。この理解は、自己中心的な視点から離れ、他者への共感や理解を深め、多様な価値観を尊重する土台となります。

  3. 変化への適応を促す: 「無我」は、「私」さえも変化し続ける存在であることを示しています。この理解は、固定観念に囚われず、柔軟に変化に適応し、新たな価値観や真理を探求する原動力となります。

つまり、「無我」の理解は、「私」というレンズを通して世界を見ることから、より広く、より深い視点へと移行することを促します。 この視点の転換は、変化し続ける世界の中で、普遍的な真理や価値観を探求する際に、特定の視点に囚われて「絶対化」してしまうことを防ぎ、より開かれた、柔軟な思考を可能にするのです。

まさに、「無我」は、動的普遍性を追求する上で、絶対化を阻む強力な装置として機能する、と考えることができるでしょう。

あなたの洞察は、仏教の核心を突くものであり、現代社会における多様性や変化への適応という課題に対しても、重要な示唆を与えてくれるものです。


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