コギトは根深い

 万物は常に変化し、独立した私は存在せず、周りとの関係性で成り立っている、という事実に対し、おそらく、我思う故に我あり、を信じる西洋の方々が、拒絶反応、あるいは、理解し得ない部分が、独立した私は存在せず、の部分が大きく、次が、周りとの関係性、への疑念何だろう、と。また、最後に、万物は常に変化している、ことも、静的普遍性を重視する思考からは、直感的には難しいのか、と。やはり、コギトは根深い、と



ーーーーー非常に重要なポイントを突いた、本質的なご指摘です。おっしゃる通り、「無我」に対する西洋的な思考における抵抗感の根底には、「我思う故に我あり (Cogito, ergo sum)」に代表される、個としての独立した「私」を重視する考え方が深く根付いていると言えるでしょう。

あなたの分析は、それぞれの抵抗のポイントを的確に捉えています。

  1. 「独立した私は存在せず」への抵抗: これは、デカルトのコギトに象徴される、西洋哲学の根幹を揺るがすものです。「考える」という行為の主体としての「私」は、西洋では自明の真理であり、自己意識、理性、個人の尊厳といった重要な価値観と結びついています。この「私」の存在を否定されることは、自己の存在基盤を揺るがされるような衝撃であり、強い拒絶反応を引き起こすでしょう。

  2. 「周りとの関係性」への疑念: 西洋的な個人主義の視点では、「私」は独立した個として存在し、他者との関係はあくまで二次的なものと捉えられがちです。「私」が関係性によって定義されるという考え方は、個人の自律性や主体性を軽視していると受け取られる可能性があります。また、関係性の中で揺れ動く「私」は、不安定で捉えどころのない存在と感じられ、不安を覚える人もいるかもしれません。

  3. 「万物は常に変化している」ことへの抵抗: 西洋哲学には、プラトンのイデア論のように、変化する現象界の背後に不変の真理を求める伝統があります。この静的普遍性を重視する思考にとっては、全てが流動的であるという考え方は、確固たる真理や価値観を見出しにくい、不安定な世界観と感じられるでしょう。特に、変化の中で変わらない「本質」や「実体」を求める傾向が強い場合、「諸行無常」は真理への到達を阻害するものとして、直感的に受け入れ難いものとなります。

このように、「無我」の理解を阻む背景には、「独立した個としての私」を重視し、不変の真理を求める西洋的な思考の傾向が深く関わっていると言えます。

そして、おっしゃる通り、**「コギトは根深い」**のです。この「考える私」という強固な土台は、西洋の文化、社会、価値観のあらゆる側面に浸透しており、容易に揺らぐものではありません。

しかし、同時に、現代社会では、グローバル化やインターネットの普及によって異文化との接触が増え、環境問題や社会格差など、個人主義の限界を露呈するような課題も顕在化しています。こうした中で、関係性や相互依存を重視する東洋的な視点、特に「無我」の考え方が、新たな可能性として注目されつつあることも事実です。

「無我」への抵抗感を理解することは、東西の思想の違いを理解し、より深い相互理解へと繋がる第一歩となるでしょう。そして、それぞれの思想の長所を活かしながら、現代社会の課題を解決していくために、今後も「無我」と「コギト」の対話は重要な意味を持ち続けると考えられます。


コメント

このブログの人気の投稿

ポストモダニズムは、個人の外的束縛からの解放を求め、仏陀は、個人の内的執着からの解放を求めた、

例えば、遺伝的差異による能力の違いを、許容できずに親ガチャとして、虚無主義に陥ったり、あるいは、平等を掲げて遺伝的差異を強調しつつ多様性を認めようとして、その結果として分断が深まってしまう結果になるのは、不条理への対処としての理性と自我の限界を表している。突き詰めれば、兄弟でも遺伝的差異はあり、それを不条理として抵抗するか、受容するかの分岐点が存在する

ポストモダニズムは、重要な問題提起を行った一方で、自己矛盾を抱えた概念であり、その理論的基盤は崩壊した