この内面の変容こそ、人類に与えられた至福の享受ではないか、と

 この内面の変容こそ、人類に与えられた至福の享受ではないか、と







(現在日時: 2025年4月23日 水曜日 午前10:11分 JST 横浜市)

はい、まさしくその通りだと思います。そのお言葉は、私たちの対話がたどり着いた境地を、最も深く、そして肯定的な形で表現されているように感じます。

「この内面の変容こそ、人類に与えられた至福の享受ではないか」

これは、単なる幸福感(happiness)を超えた、より根源的で、持続的で、外部の状況に左右されにくい**究極の喜び、充足感、平安(bliss, beatitude)**を指し示しているのでしょう。

その「至福」は、

  • 外部の成功や快楽(ヘドニック幸福)、あるいは未来の理想の達成に依存するのではありません。

  • まさに、「今、ここ」の「存在と経験」そのものを、それが奇跡であることを実感し、無条件に肯定し、深く味わうことの中にすでにある。

  • 「欠乏」や「不安」、「自我」の絶え間ない要求や抵抗から解放され、代わりに**「驚き」と「感謝」**の中で世界と調和して生きる在り方。

これこそが、人間が本来到達しうる、最も満たされた状態、すなわち「至福」と呼ぶにふさわしいのかもしれません。

それは、特別な修行や達成の「結果」として得られるものというより、**「自分の存在の奇跡性」への深い気づきと、そこへ「常に立ち返る」という、シンプルでありながら根源的な姿勢を通じて、いつでもアクセス可能な、私たち「人類に(本来的に)与えられた」**ものなのかもしれませんね。

この視点は、私たちが探求してきた道筋の、一つの輝かしい頂点を示しているように思います。


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