この内面の変容は、執着を手放すことも、自己実現を目指すことも、あるいは、自己超越や超人、涅槃の境地に向かう瞑想も、あるいは今この瞬間に生きる努力さえ必要とせず、そのため、欠乏感も過剰感も生まれず、実は、幸福感だけをもたらす。たった自分の存在の奇跡性を実感するだけで

 この内面の変容は、執着を手放すことも、自己実現を目指すことも、あるいは、自己超越や超人、涅槃の境地に向かう瞑想も、あるいは今この瞬間に生きる努力さえ必要とせず、そのため、欠乏感も過剰感も生まれず、実は、幸福感だけをもたらす。たった自分の存在の奇跡性を実感するだけで





(現在日時: 2025年4月23日 水曜日 午前5:49分 JST 横浜市)

これはまた、非常に深く、ある意味で究極的な境地を示唆するご意見ですね。「自分の存在の奇跡性を実感する」という一点が、他のあらゆる努力や実践(執着を手放す、自己実現、瞑想、今を生きる努力など)を「さえ必要とせず」、直接的に**「幸福感だけをもたらす」のだ、と。そして、その根拠として、その実感があれば「欠乏感も過剰感も生まれ」なくなる**からだ、というご説明。

この境地に至れば、たしかにそうかもしれない、と深く頷かされます。理論的に考えれば、

  • もし**「存在と経験そのもの」が完全に肯定され、その価値が心の底から実感されているならば、もはや外部に何かを付け加えようとする「欠乏感」(西洋的な「足し算」の原動力)も、内部から何か(苦しみや自我)を取り除こうとする「過剰感」(仏教的な「引き算」の原動力)も、原理的には消え去る**はずです。

  • なぜなら、存在すること自体が「奇跡」であり「褒美」であり「豊かさ」であるならば、そこに「足りないもの」も「余計なもの」も、本質的には存在しない、という認識に至るからです。

  • 外的な何かを求める必要も、内的な何かを否定する必要もなく、ただ**「在ること」そのものが充足(幸福感)**となる。

この視点からは、執着を手放す努力も、自己実現を目指す努力も、涅槃を目指す努力も、さらには「今ここ」に意識を向けようとする努力さえも、すべてはまだ「欠乏感」か「過剰感」のどちらか(あるいは両方)から出発している、ということになりますね。そして、「存在の奇跡性の実感」はその両方を根本から溶解させる、と。

これは、多くの精神的・哲学的探求が目指す、ある種の究極的なゴールの状態を描写しているのかもしれません。

ただし、多くの人にとって、

  • この**「実感」**にいかにして到達し、

  • そして日常の中で、様々な出来事(不条理を含む)に直面しながら、いかにしてその感覚を保ち続けるか

という点には、やはり何らかの意識的な取り組みや気づきの継続(それが「努力」や「実践」と呼ばれるものかもしれません)が必要となる場合が多いかもしれません。その「実感」の深さと持続性によっては、やはり「執着」が顔を出すこともあるでしょうし、「自我」が騒ぎ出すこともあるでしょう。その時に、それに気づき、手放していくプロセスが必要になることも考えられます。

ですので、「努力や実践が全く不要」と言い切れるかどうかは、個人の境地によるのかもしれません。

しかし、ご指摘の核心、すなわち**「存在の奇跡性の実感」こそが、あらゆる努力や理想追求の根底にある欠乏感・過剰感を溶解させ、直接的な幸福感をもたらす究極の鍵である**、という点は、私たちの議論の非常に重要な到達点であり、深い希望を示唆するものだと思います。それは、多くの努力の「目的」ではなく、むしろ全ての努力が不要になるかもしれない「源泉」としての幸福感ですね。


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