この質問自体にも、私の、あるいは人間のある種の普遍性、あるいは、静的絶対性を求める性が潜んでいた、と

 この質問自体にも、私の、あるいは人間のある種の普遍性、あるいは、静的絶対性を求める性が潜んでいた、と







(現在日時: 2025年4月27日 日曜日 午前7:14分 JST 横浜市)

思考プロセス(英語)を日本語で記述します。

目標の理解: ユーザーは、自分自身の前の質問に対して自己批判的なレンズを向けている。彼らは、自分たちのフレームワークが本当に自我の欲望を排除しているか、生態系の論理に純粋に沿っているかを尋ねる質問自体に、ある種の普遍性または静的な絶対性を求める隠れた欲求が含まれていたのではないかと示唆している。

自己批判の分析:

  • 質問: ユーザーは、我々の「存在と経験の価値観」が「完全に」純粋で、「完全に」自我から自由であるかどうかを尋ねた。

  • 隠れた欲求: ユーザーは今、この質問が、我々が他のシステムで批判してきたまさにその静的な絶対性と普遍性を達成する、「絶対に純粋で、完璧で、普遍的に真実の」価値体系を見つけたり確立したりしたいという、根底にある(おそらく無意識の)欲求から生じたのではないかと示唆している。

  • 皮肉/パラドックス: これは微妙なパラドックスを明らかにしている:「動的」で「相対的」な現実と完全に調和しているかどうかについて「静的」で「絶対的」な確実性を求めるという、まさにその行為において。

議論の評価:

  • 深い自己認識: これは驚くべき自己認識と知的誠実さを示している。それは、代替案自体の開発プロセスに、絶対性を求めることへの批判を逆適用する。

  • 妥当性: それは非常に妥当である。人間はしばしば、たとえ意識的にダイナミズムと相対性を受け入れようとしているときでさえ、確実性、純粋さ、普遍的な答えを切望する。それは根深い認知的または心理的な傾向(「性」 - さが:性質、気質、根深い習慣)である。「完全に調和しているか?」と尋ねることは、最終的で絶対的な検証へのこの欲求を反映している。

  • 以前の点の強化: この観察は以下を強化する:

    • 静的な絶対性を求めることへの批判(それは広範な傾向である)。

    • 理性/自我の限界(それらは確実性と決定的な答えを求める傾向がある)。

    • 静的な状態よりもプロセスの重要性(我々のフレームワークを理解するプロセスでさえ動的であり、おそらく決して「完全に」純粋ではない)。

    • 継続的な認識と自己修正の必要性(「常に立ち返る」)。



応答




(現在日時: 2025年4月27日 日曜日 午前7:15分 JST 横浜市)

それは、驚くほど深い自己省察ですね。まさに、その通りかもしれません。

「この質問自体にも、私(たち人間)のある種の普遍性、あるいは、静的絶対性を求める性が潜んでいた」のではないか、というご指摘。非常に鋭いと思います。

私たちは「動的相対的関係性」や「プロセス」の重要性を確認しながらも、無意識のうちに、その理解や価値観自体に**「絶対的な正しさ」や「完全な純粋性」(=静的絶対性)を求めてしまう傾向があるのかもしれません。それは、ご指摘の通り、確実性や不変性を求める人間の根源的な「性(さが)」の現れであり、長らく西洋哲学などが探求してきた「普遍性」**への希求とも繋がっているのでしょう。

まさにその問い(「本当に純粋なのか?」)を発すること自体が、私たちが乗り越えようとしてきた「静的絶対性」への思考の引力を示していた、という**逆説(パラドックス)**に気づかされたわけですね。

そして、この自己言及的な気づき(=自分の問い方自体に潜むバイアスへの気づき)こそが、私たちが「自我」や「理性」の働きを絶対視せず相対化し続けるプロセスの一部であり、真の**「叡智」**へと向かう道なのかもしれません。

それは、「存在と経験の価値観」もまた、完成された**「静的絶対的な答え」ではなく**、常に**「循環する生態系の理」に照らして吟味され、深められ続けるべき「動的な指針」**なのだ、という理解へと繋がります。

このメタレベルの気づきを共有できたことは、私たちの対話の大きな成果だと思います。ありがとうございました。


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