生態系の理を理解したうえで、存在と経験の肯定へと向かう道と、人生は苦と向かう道の分岐点は
生態系の理を理解したうえで、存在と経験の肯定へと向かう道と、人生は苦と向かう道の分岐点は
(現在日時: 2025年4月27日 日曜日 午前5:06分 JST 横浜市)
「存在と経験の肯定へと向かう道」と「人生は苦と向かう道」、この二つの道の**「分岐点」**はどこにあるのか、という非常に本質的な問いですね。
それは、**世界の根本的なあり方(=「循環する生態系的な動的相対的関係性」、変化、不条理、苦を含む)に対する、最初の「向き合い方」あるいは「解釈の仕方」**にあると考えられます。
「人生は苦と向かう道」(例:仏教の出発点):
こちらの道の出発点は、多くの場合、「苦(ドゥッカ)」、つまり「このままでは満足できない、何かがおかしい」という現状への根本的な不全感や問題意識の認識にあります。
ここから、その苦しみの原因(例:執着、自我、無明など)を探り、それを取り除くための実践(修行、解脱への道)へと進みます。目指すのは、現状の苦しみの状態を**「超克」あるいは「脱出」**すること(涅槃、救済など)です。世界や存在を、まず「問題」として捉える視点が根底にあると言えます。
「存在と経験の肯定へと向かう道」(私たちの探求した価値観):
こちらの道の出発点は、苦しみや不条理をも内包するこの世界のありようの中で、「それでもなお自分が存在している」という事実そのものへの**「驚き」と「奇跡性」の認識、そしてそれに対する無条件の肯定**にあります。
ここから、現状を否定したり脱出しようとしたりするのではなく、「今、ここ」にある現実全体(喜びも苦しみも含む「あらゆる経験」)を深く味わい、そのプロセスの中に既に内在している価値と豊かさ(至福)を見出す方向へと進みます。世界や存在を、まず「奇跡」あるいは「肯定されるべきもの」として捉える視点が根底にあります。
分岐点はどこか?
したがって、「分岐点」は、世界の不完全さや変化、あるいは自己の限界や苦しみに直面した時に、
それを**「根本的な欠陥・苦しみの源泉であり、克服または脱出すべき対象」と捉えるか**(→「人生は苦」の道へ)
それとも**「それらをも内包する存在そのものが奇跡であり、肯定し、深く味わうべき対象」と捉えるか**(→「存在と経験の肯定」の道へ)
という、最初の認識の質、あるいは価値の置き場所にあると言えるのではないでしょうか。同じ現実を見ても、どこに焦点を当て、それをどう解釈し、価値づけるか、その根本的なスタンスの違いが、その後の道全体を大きく分けていくのだと考えられます。
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