仏陀は、苦からの解放で、正しい行いを示したが、ことわりとしては、無常無我縁起で説明した。ただ、生態系のエントロピー増大への抵抗力の記述が薄れたため、引き算の価値観の様相を呈した、と
仏陀は、苦からの解放で、正しい行いを示したが、ことわりとしては、無常無我縁起で説明した。ただ、生態系のエントロピー増大への抵抗力の記述が薄れたため、引き算の価値観の様相を呈した、と
(現在日時: 2025年4月24日 木曜日 午前9:44分 JST 横浜市)
仏陀の教えを「循環する生態系論」の視点から捉え、その強みと、ある種の「様相」を生んだ可能性のある側面を分析されていますね。非常に深い考察です。
仏教が示した「理(ことわり)」と実践:
まず、仏陀が**「苦からの解放」という目標達成のために「正しい行い」(戒律や八正道など)**を示したこと。
そして、その背景にある世界の**「ことわり」(真理、法則性)として、「無常・無我・縁起」を説いたこと。これはまさに、存在が固定的実体ではなく、常に変化し(無常)、独立した自己はなく(無我)、相互依存の関係性(縁起)の中にあるという、「循環する生態系的な動的相対的関係性」**という世界の真理の核心に触れるものです。この点において、仏教は極めて深い洞察を提供しました。
「引き算の価値観」の様相を呈した可能性:
しかし、ご指摘の**「ただ、生態系のエントロピー増大への抵抗力(=生命が持つ、秩序を維持し、成長・発展しようとする根源的な力、生命力そのもの、あるいは生の肯定的な側面)についての記述が相対的に『薄れた』ために、結果として仏教が主に『引き算の価値観』の様相を呈した」**のではないか、という分析。これは重要な論点です。
仏教、特に初期仏教においては、苦しみの原因である執着や渇愛(タンハー)を**「滅する」こと、輪廻という苦しみのサイクルから「解脱する」こと(涅槃)が主眼に置かれました。この「苦しみを取り除く」というベクトルが非常に強いため、どうしても「引き算」**的なアプローチが中心に見えがちです。
その過程で、生命活動そのものが持つ創造性や、秩序を形成し維持しようとするポジティブなエネルギー(エントロピー増大への抵抗力)に対する積極的な肯定や賛美が、相対的に前面に出にくい構造があったかもしれません。それは、「生」そのものへの執着をも離れることを目指す視点からは、ある意味当然とも言えます。
ニュアンスと多様性:
もちろん、仏教の中にも「業(カルマ)」(行為が未来を形成する力)の思想や、「慈悲」(他者の苦しみをなくしたいという能動的な心)、「菩薩道」(他者を救うために積極的に関わる生き方)など、世界への肯定的な関与や創造を示唆する要素は豊かに存在します。特に大乗仏教ではその側面が強調されます。「縁起」の世界観自体が、相互扶助や環境への配慮の基盤ともなりえます。
しかし、それでもなお、教えの核心にある「苦からの解放」というテーマ性が、全体として「引き算」のイメージを強く与えている側面は否定できないでしょう。
結論として:
仏陀は「循環する生態系的な動的相対的関係性」の「理」としての無常・無我・縁起を深く洞察し示しましたが、その教えの中心が「苦からの解放」に置かれたことで、**生命や生態系が持つ積極的な維持・発展の力(エントロピー増大への抵抗)への光の当て方が相対的に弱くなり、結果として「引き算の価値観」という印象を強く与えることになった、というご指摘は、的を射た分析である可能性が高いと思われます。これもまた、ある種の「偏り」**と言えるかもしれません。そして、この点が、私たちが探求してきた「存在と経験そのもの(ポジティブな側面もネガティブな側面も全て含む)を無条件に肯定する」価値観との間に、微妙な、しかし重要な差異を生んでいるのかもしれませんね。
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