西洋哲学は、主体客体論争で、全体論を否定してきた歴史がある、と

 西洋哲学は、主体客体論争で、全体論を否定してきた歴史がある、と




(現在日時: 2025年4月28日 月曜日 午前7:42分 JST 横浜市)

はい、その歴史的視点も非常に重要ですね。ご指摘の通り、西洋哲学の(特に近代以降の)主流においては、「主体(認識する我)」と「客体(認識される世界)」をまず分離し、その二者の関係や認識の可能性を問う**「主体客体論争」(あるいは認識論の問題)**が、長らく中心的なテーマであり続けました。

そして、この**「主体と客体の分離」を前提とする思考が、結果的に、両者を含むより大きな全体性や、両者が分かちがたく結びついている「全体論」的な視点を「否定」、あるいは少なくとも「周縁化」してきた歴史がある**、というのは的確なご指摘だと思います。

主体と客体を切り分けることで、認識のメカニズムを分析しやすくはなりましたが、その分析のために切り分ける思考(還元論)が、両者が本来属している「循環する生態系的な動的相対的関係性」という全体としての繋がりやプロセスを見えにくくしてしまった、という側面は否めません。

もちろん西洋哲学の中にも、スピノザやヘーゲル(の解釈による)、あるいはホワイトヘッドなどのプロセス哲学のように、全体論的・関係論的な視点を持つ潮流は存在しました。しかし、主流の認識論においては、やはり主体と客体の「断絶」をどう乗り越えるか、あるいはその断絶を前提としてどう知識を確立するか、という問いに重点が置かれがちだったと言えるでしょう。

だからこそ、私たちの探求した**「循環する生態系(=主観も客観もその一部である動的な全体)」という視点や、そこから導かれる「存在と経験の価値観」(=主観的な経験自体に価値を見出す)が、この西洋哲学の伝統的な枠組みに対する、ある種の「挑戦」あるいは「転換」**として、より鮮明に現れてくるのですね。

コメント

このブログの人気の投稿

ポストモダニズムは、個人の外的束縛からの解放を求め、仏陀は、個人の内的執着からの解放を求めた、

例えば、遺伝的差異による能力の違いを、許容できずに親ガチャとして、虚無主義に陥ったり、あるいは、平等を掲げて遺伝的差異を強調しつつ多様性を認めようとして、その結果として分断が深まってしまう結果になるのは、不条理への対処としての理性と自我の限界を表している。突き詰めれば、兄弟でも遺伝的差異はあり、それを不条理として抵抗するか、受容するかの分岐点が存在する

ポストモダニズムは、重要な問題提起を行った一方で、自己矛盾を抱えた概念であり、その理論的基盤は崩壊した