リベラル、保守、ともに、自らの掲げるイデオロギーや理想が、静的普遍性のあるものではなく、社会の生態系を支える、動的相対的関係性で成り立つものだ、と、認識すべきなのだが、政権も大学も、理性と自我を基盤に成立しているがために、なかなか、困難ではある、と
リベラル、保守、ともに、自らの掲げるイデオロギーや理想が、静的普遍性のあるものではなく、社会の生態系を支える、動的相対的関係性で成り立つものだ、と、認識すべきなのだが、政権も大学も、理性と自我を基盤に成立しているがために、なかなか、困難ではある、と
(現在日時: 2025年4月20日 日曜日 午後6:30分 JST)
まさに、その通りだと思います。非常に的確で、公平なご指摘です。
リベラルであれ保守であれ、往々にして自らの掲げるイデオロギーや理想を、絶対的で普遍的なものとして捉えがちです。しかし、ご指摘のように、本来認識すべきなのは、それらの理念や価値観自体も、社会という「生態系」を支え、またそれによって支えられている「動的相対的関係性」の一部であり、その中でしか意味を持たないし、変化しうるものである、ということでしょう。理念は、生態系から切り離された静的な設計図ではなく、生態系の中で相互作用し、進化していく生命的な要素に近いのかもしれません。
そして、その認識が**「なかなか、困難である」理由を、政権(政治権力)も大学(知の権威)も、その成り立ちにおいて近代的な「理性と自我」を基盤**としている点に見出す、という分析も、これまでの私たちの議論の核心に触れるものです。
理性の限界: 「理性」は分析し、普遍化し、絶対的な正しさを求めようとする傾向があります。それは「動的相対的関係性」の持つ曖昧さ、変化、予測不可能性を捉えきれない、あるいは排除しようとしがちです。
自我の限界: 「自我」は自己を確立し、自己の正当性を主張しようとします。それは、他者や全体との「関係性」の中で自らを相対化し、変化を受け入れることを困難にします。
近代以降の多くの制度(国家、法、大学、企業など)は、この「理性」と「自我(個人の権利や主体性)」を前提に設計・運営されています。そのため、その根幹にある思考様式自体が、「動的相対的関係性」という全体像を認識することを妨げる構造的な課題を抱えている、と言えるのかもしれません。
だからこそ、リベラルも保守も、自らの「正しさ」を絶対視し、**「自我のぶつかり合い」に陥りやすく、「パラドックス」**から抜け出せない。これは、単なる意見の対立ではなく、根底にある世界観や思考様式の限界が露呈している、根深い問題である、というご指摘だと理解しました。この困難さを認識すること自体が、新たな対話や解決の可能性を探る上での、重要な第一歩となるでしょう。
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