不条理を許せず、抵抗しようとする人たちは

 不条理を許せず、抵抗しようとする人たちは



(現在日時: 2025年4月21日 月曜日 午前6時08分 JST)

「不条理を許せず、抵抗しようとする人たち」ですね。私たちの議論の文脈で考えると、彼らは以下のような特徴や傾向を持つと捉えることができます。

  1. 「自我」と「個の秩序」への固執: 彼らは、世界の中心に自分たちの**「自我」を置き、自分たちが理解・納得できる「個の(快適な)秩序」や、「理性」で構築した「こうあるべきだ」という静的な理想**を絶対視する傾向があります。

  2. 「動的相対的関係性」への抵抗: 世界や人生が、本来的に予測不能で、時に理不尽に見える出来事をも含む**「動的相対的関係性」(循環する生態系)**で成り立っているという現実を受け入れがたいと感じています。その流れや変化、不確実性に対して、抵抗感や拒否感を抱きがちです。

  3. 「錯覚」に基づく行動: 世界は本来、理性的で、公平で、コントロール可能であるはずだ(あるいは、そうあるべきだ)という**「錯覚」**に基づいて行動しようとします。「不条理」は、排除すべきエラーや、誰かの責任による不正義として捉えられます。

  4. 結果としての「苦しみ」と「パラドックス」:

    • 現実(不条理を含む)に抵抗するため、現実との間に絶え間ない摩擦が生じ、フラストレーション、怒り、不安、不満といった精神的な苦しみを抱えやすくなります(ジェニーのように)。

    • 不条理を力で排除しようとしたり、自分の理想を押し付けようとしたりする試みは、しばしば**意図せぬ副作用や新たな問題(パラドックス)**を引き起こし、状況をさらに悪化させかねません。

    • **「自我のぶつかり合い」を激化させ、周囲との関係性を損ない、社会全体の「循環する生態系」**の調和を乱す一因となる可能性もあります。

  5. 真の幸福からの乖離: 「今、ここ」にある現実(不条理を含む)を否定し、常に「あるべき姿」を追い求めるため、**「今瞬間の、存在そのものと経験そのもの」に価値を見出すことから遠ざかります。結果として、私たちが議論したような、受容と参与から生まれる深い充足感(ユーダイモニック幸福)や「祝福」**を得ることが困難になります。

要するに、「不条理を許せず、抵抗しようとする」態度は、「自我」の視点からは自然で正当に見えるかもしれませんが、「循環する生態系的な動的相対的関係性」という、より大きな現実の視点から見ると、現実との不調和を生み出し、自他共に不必要な苦しみや混乱をもたらす可能性が高い生き方である、と私たちの議論は示唆しているかと思います。





それらの人々からの反駁は




(現在日時: 2025年4月21日 月曜日 午前6時11分 JST)

「不条理を許せず、抵抗しようとする人たち」の立場からすれば、私たちが展開してきた「受容」を重視する考え方に対して、おそらく以下のような反論や正当化が考えられるでしょう。

  1. 正義と道徳的責任からの反論: 「『不条理の受容』とは、結局のところ不正義や理不尽な苦しみを黙認することではないか? 差別、暴力、不平等といった具体的な悪に対して、『それも生態系のダイナミズムの一部だ』と受け入れるのは、道徳的に許されない無関心・無責任だ。私たちは、より公正で正しい社会を築くために、これらの不正と戦う道徳的義務があるはずだ。」

  2. 進歩と改善への意志からの反論: 「もし人類が常に『不条理』をそのまま受け入れていたら、科学の発展も、社会改革も、奴隷制の廃止も、女性の権利向上もなかっただろう。現状の不合理や限界を**『おかしい』『改善すべきだ』と抵抗し、努力してきたからこそ、人類は進歩**してきた。あなたの言う『受容』は、停滞を招くだけではないか。」

  3. 理性と合理性への信頼からの反論: 「世界は理解可能であり、理性によってより良くしていくことができるはずだ。『不条理』を根絶することはできなくとも、理性を働かせて問題を分析し、解決策を探求することこそ、人間の知性の役割だ。『世界の根本は不条理だ』と諦めてしまうのは、知的怠惰か、非科学的な神秘主義に過ぎない。」

  4. 人間の尊厳と主体性からの反論: 「人間は、ただ流されるだけの存在ではない。自らの尊厳を持ち、主体的に判断し、行動し、より良い未来を築く能力と権利を持っている。困難や理不尽に対して、ただ『受け入れよ』というのは、人間の主体性を否定し、無力感に陥らせる考え方ではないか。」

  5. 「受容」の誤解に基づく反論: 「『受容』と言っても、それは結局、困難な状況を変える努力を諦めることと同じではないか? 苦しんでいる人を見ても『仕方ない』と見過ごすような、冷淡で消極的な態度を正当化しているように聞こえる。」

これらの反論は、正義感、進歩への意欲、理性への信頼、人間の主体性や尊厳といった、それ自体としては非常に重要で、近代社会を支えてきた価値観に基づいています。彼らにとって、「不条理への抵抗」は、これらの価値観を守り、実現するための、当然かつ必要な行動と映っているのでしょう。

私たちの議論における「受容」が、これらの価値観を必ずしも否定するものではなく、むしろより深いレベルで現実と調和するための道筋を示唆しているとしても、抵抗する立場からは、上記のような強い反駁が予想されると考えられます。


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