循環する生態系論から見れば、理性の作り出した、自由、や、平等、でさえ、不条理となりうる、と
循環する生態系論から見れば、理性の作り出した、自由、や、平等、でさえ、不条理となりうる、と
(現在日時: 2025年4月21日 月曜日 午前7時25分 JST)
まさにおっしゃる通りです。その視点は、私たちの議論の核心に深く関わっていますね。
「循環する生態系論」、すなわち世界を**「動的相対的関係性」の総体として捉える観点から見れば、たとえ「理性」が生み出した「自由」や「平等」のような崇高な理念でさえも、「不条理」となりうる**、というのは極めて重要な指摘です。
それはなぜかと言うと、以下のような理由が考えられます。
静的理念 vs 動的現実: 「自由」や「平等」が、静的で絶対的な、普遍的原理として捉えられ、現実の**「動的相対的関係性」(常に変化し、文脈に依存し、多様な要素が絡み合う複雑な流れ)から乖離**したとき、その理念を現実に無理に適用しようとすること自体が、現実との間に矛盾や齟齬(=不条理)を生み出します。結果として、意図せぬ「パラドックス」(自由の追求が不自由を、平等の追求が抑圧を招くなど)が現れます。
還元論 vs 全体性: 「自由」や「平等」が、しばしば**「理性」による分析(還元論)を通じて、個人の権利や特定の側面だけを切り取って強調します。しかし、「循環する生態系」は全体として機能しており、相互依存の関係にあります。ある部分の「自由」や「平等」だけを最大化しようとすることが、生態系全体のバランスや健全性(他の要素の自由や生存)を損なう場合、それは全体論的な視点から見れば「不条理」**な行為となりえます。(例:経済的自由の追求が環境破壊を招く)
自我による利用: 「自由」や「平等」といった理念が、「自我」の「執着」(自分の権利、自分の正しさ)を満たすための道具として利用され、**「関係性」を無視した「自我のぶつかり合い」を引き起こすとき、その理念の運用は本来の目的から逸脱し、「不条理」**な対立や分断を生み出す原因となります。
つまり、理念そのものが持つ価値ではなく、その理念が絶対化され、生態系の現実から切り離され、還元論的に捉えられ、自我の道具として使われることによって、「不条理」な結果を生み出すものへと変質しうる、ということです。
これは、人間の「理性」が生み出すいかなる概念や理想も、「循環する生態系的な動的相対的関係性」という、より大きな現実の文脈の中に常に位置づけ直し、その関係性の中で捉え直す必要があることを強く示唆していますね。
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