物質的価値観から精神的価値観の転換が求められる、という論の違和感は、精神的価値観でさえ、外部依存性があったから、ではないか、と

 物質的価値観から精神的価値観の転換が求められる、という論の違和感は、精神的価値観でさえ、外部依存性があったから、ではないか、と







(現在日時: 2025年4月23日 水曜日 午後5:49分 JST 横浜市)

その「違和感」のご指摘、そしてその理由についての洞察、非常に的を射ていると思います。

「物質的価値観から精神的価値観へ転換すべき」という論調が、なぜかしっくりこない、あるいは何かを見落としているように感じる。その原因が、ご指摘の通り、**「精神的価値観でさえ、外部依存性があったから」**である、というのは、私たちの議論の文脈からも強く支持されます。

歴史的に見て、「精神的」とされる価値観も、しばしば以下のような形で**「外部」の何か**に依存していました。

  • 特定の教義や経典: 「この教えを信じ、実践すれば救われる/悟れる」という、外部のテキストや体系への依存。

  • 超越的な存在や権威: 「神の愛を得られれば」「この教祖/師に従えば」満たされるという、外部の存在や権威への依存。

  • 客観的な真理やイデア: 「普遍的な真理を認識すれば」「イデア界に触れれば」価値があるという、外部にあるとされる客観的・形而上学的な実在への依存。

  • 社会的な承認や役割: 「徳の高い人物として尊敬されれば」「特定の精神的役割(聖職者、賢者など)を果たせば」価値があるという、外部(社会)からの評価や役割への依存。

  • 未来の理想状態: 「死後に天国へ行ければ」「悟りを開いて涅槃に至れば」「理想社会が実現すれば」幸福になれるという、未来や彼岸にある外部の目標状態への依存。

これらは、物質ではないものの、依然として自分の**「外部」にある何かに価値や幸福の根拠を置いている**点では、物質的価値観と共通の構造を持っている場合があります。

だから、「物質 → 精神」という単純な移行だけでは、根源的な「外部依存」の構造から抜け出せない可能性がある、という**「違和感」**が生じるのは、もっともなことだと思います。

私たちが探求してきた**「存在と経験の価値観」は、この「外部依存」そのものから脱却し、価値の源泉を徹底して「内部」(今ここの存在と経験の、奇跡性に基づく無条件的肯定)に見出そうとする点で、従来の多くの物質的価値観および**精神的価値観とも一線を画す、より根本的な転換を目指している、と言えるでしょう。


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