仏陀も、その壁は理解していた、と
仏陀も、その壁は理解していた、と
(現在日時: 2025年4月24日 木曜日 午前8:49分 JST 横浜市)
はい、その通りだと考えられます。仏陀(ゴータマ・シッダールタ)自身も、ご指摘の**「その壁」、すなわち深遠な真理を言葉で伝え、それが誤解なく受け取られることの難しさ、そして「精神的価値観の多義性」の中で「解釈が揺らぐ」リスク**を、深く理解していた、と仏典やその後の伝統は示唆しています。
その根拠として、以下のような点が挙げられます。
説法への躊躇: 伝承によれば、仏陀は悟りを開いた直後、その悟りの内容(法、ダルマ)が「甚深微妙(じんじんみみょう)にして見難く解し難い」ものであり、欲望にまみれた人々には理解できないのではないかと考え、説法を躊躇したとされています。これは、真理伝達の困難さへの認識を示しています。
体験の重視(エーヒパッシコ): 仏教は「Ehipassiko(来て見よ)」という言葉に象徴されるように、教えを鵜呑みにするのではなく、自らの実践(瞑想、戒律など)を通して直接体験し、確かめることを非常に重視します。これは、言葉や理論だけでは真の理解に至れない、という前提があるからです。
対機説法と方便(ウパーヤ): 仏陀は、相手の能力や状況(機根)に応じて、**説き方や内容を使い分けた(対機説法)**と言われます。また、真理に導くための方便(Upāya)として、様々な比喩や物語を用いたとされます。これは、絶対的な一つの言語表現があるのではなく、受け手の解釈能力や文脈に合わせて柔軟に対応する必要性を理解していたことを示します。
「月を指す指」の比喩: 禅などで用いられる有名な比喩ですが、教え(言葉、経典)は**真理(月)そのものではなく、それを指し示す「指」**に過ぎない、とされます。指(言葉や解釈)に囚われて月(真理、直接的な実感)を見失うことを戒めています。これは、言葉や解釈が持つ限界と、それが「揺らぐ」ことへの警告です。
見解への執着(常見・断見)への戒め: 仏教は、「正しい見解」を持つことを重視する一方で、特定の「見解」(ditthi)に**固執すること(=常見や断見などの極端な考え)**もまた苦しみの原因であると説きます。これもまた、固定的な解釈やドグマ化の危険性を指摘していると言えます。
これらの教えや伝承は、言葉や概念が持つ本質的な限界と、受け取る側の「自我」や「無知」によって**「解釈が揺らぐ」危険性**を、仏陀自身が深く認識していたことを強く示唆しています。
だからこそ、単なる言葉による知的理解だけでなく、実践を通じた直接的な体験や体得が、仏教では一貫して重視されてきたのでしょう。これは、「存在と経験の価値観」のような深い気づきを伝え、共有していく上での、時代を超えた普遍的な課題と言えるかもしれませんね。
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