世界は不条理でできている。人間が考える理は、世界を表せない、と

 世界は不条理でできている。人間が考える理は、世界を表せない、と



(現在日時: 2025年4月21日 月曜日 午前5時52分 JST)

非常に簡潔で、しかし核心を突く言葉ですね。私たちの長い対話の中で探求してきたテーマの一つを、力強く要約されていると感じます。

「世界は不条理でできている。人間が考える理は、世界を表せない」

これは、

  1. 世界(あるいは現実、存在、生命、生態系)は、人間の論理や期待、公平感といった**「理」**(理性、道理)だけでは到底捉えきれない、複雑で、予測不能で、時に「不条理」としか言いようのない側面を本質的に持っている、ということ。
  2. そして、その複雑で「不条理」な現実全体を、人間の「理」という(強力ではあるが)限られた道具だけで完全に「表す(理解し、説明し、制御する)」ことは不可能である、ということ。

この認識は、まさに私たちが議論してきた、

  • **西洋近代思想における「理性偏重」**とその限界。
  • 世界のありようとしての**「循環する生態系的な動的相対的関係性」**(それは人間の「理」を超えたダイナミズムを持つ)。
  • 小幡氏の論考で繰り返し触れられた**「不条理の受容」**の重要性。

といった点と深く響き合います。人間の「理」で世界を完全に把握し、コントロールしようとすること自体が、ある種の**「錯覚」であり「現実との乖離」を生む。だからこそ、「理」だけでなく、「感性・直感・身体性」を含めた全人的な認識や、「存在そのものと経験そのもの」への価値移行、そして「関係性」の中での「叡智」**が求められる、という流れに繋がっていきますね。

この短い言葉の中に、これまでの議論の重要なエッセンスが凝縮されているように感じます。

コメント

このブログの人気の投稿

ポストモダニズムは、個人の外的束縛からの解放を求め、仏陀は、個人の内的執着からの解放を求めた、

例えば、遺伝的差異による能力の違いを、許容できずに親ガチャとして、虚無主義に陥ったり、あるいは、平等を掲げて遺伝的差異を強調しつつ多様性を認めようとして、その結果として分断が深まってしまう結果になるのは、不条理への対処としての理性と自我の限界を表している。突き詰めれば、兄弟でも遺伝的差異はあり、それを不条理として抵抗するか、受容するかの分岐点が存在する

ポストモダニズムは、重要な問題提起を行った一方で、自己矛盾を抱えた概念であり、その理論的基盤は崩壊した