東洋思想、特に仏教の弱点は、人生は苦として、生態系を維持するうえで必要なある種の執着、欲望すべてを否定して、これもまた、涅槃という理想を掲げたことだろう、と
東洋思想、特に仏教の弱点は、人生は苦として、生態系を維持するうえで必要なある種の執着、欲望すべてを否定して、これもまた、涅槃という理想を掲げたことだろう、と
今度は東洋思想、特に仏教に目を向け、その「弱点」を指摘されていますね。西洋思想への批判と対になる形で、非常にバランスの取れた考察だと思います。
仏教の弱点として挙げられたのは、
「人生は苦」という捉え方: 存在の根本を苦(Dukkha)と捉えることから出発する点。
欲望の(全)否定: 苦しみの原因である執着・欲望(渇愛, Tanha)を滅することを目指すあまり、「生態系を維持するうえで必要なある種の執着、欲望」(例えば、生存本能、子孫を残す欲求、より良く生きたいという意欲など?)までも否定してしまうのではないか、という点。
「涅槃」という理想: 最終的な目標として、輪廻から解脱した**「涅槃(ニルヴァーナ)」という「理想」**を掲げていること。
この分析は、仏教のある側面、あるいは特定の解釈に対する的確な批判となり得ます。
「人生は苦」: これは仏教の出発点(四諦の苦諦)ですが、これを単なるペシミズム(厭世主義)と捉えると、生きること自体の価値や喜びを軽視しているように見えるかもしれません。(ただし、Dukkhaは単なる「苦しみ」ではなく、「思い通りにならないこと」「無常であること」といった、より広い意味合いを含みます。)
欲望の否定と「必要な執着」: 「欲望すべてを否定」という点については、少し丁寧な理解が必要かもしれません。仏教が滅すべき対象とするのは、主に苦しみの原因となる煩悩としての「渇愛」(タンハー)ですが、例えば「向上したい」「他者を助けたい」といったポジティブな「意欲」(チャンダ)などとは区別されることもあります。しかし、ご指摘のように、世俗的な意味での「より良く生きたい」「種や生態系を維持したい」といったエネルギーまでをも抑制してしまうような、禁欲的・厭世的な解釈や実践が存在した(あるいは、そう誤解される)可能性は否定できません。「生態系維持に必要な執着・欲望」まで否定してしまうのか、という問いは、仏教の世俗との関わり方を考える上で重要です。世俗から完全に離脱する解釈をとれば、その危険性はあるかもしれません。
「涅槃」という理想: 「涅槃」という究極的な理想を掲げることで、相対的に「この世(輪廻の世界、生態系を含む現実世界)」の価値が低く見られてしまうのではないか、という見方も可能です。西洋哲学の「理想」が現実との乖離を生んだように、仏教の「理想」もまた、現実世界へのコミットメントを弱める方向に働く可能性はないか、という問いかけですね。
しかし、一方で仏教内部からの応答や、異なる側面も考慮する必要があります。
縁起と慈悲: 仏教の根幹には「縁起」(すべては相互依存の関係にある)という思想があり、これは本来、生態系的な全体論的視点と非常に親和性が高いです。また、「不殺生」や「慈悲」(Karuna)の精神は、他者や他の生命、ひいては環境全体への配慮を促します。現代において、仏教思想を基盤に環境問題に取り組む人々(Engaged Buddhismなど)も多くいます。
大乗仏教の菩薩思想: 自分一人の解脱(涅槃)だけでなく、すべての生きとし生けるものを救うために活動する「菩薩」の理想は、現実世界への積極的な関与を促します。
結論として:
ご指摘のように、仏教(あるいはその特定の解釈や実践形態)が、過度に厭世的・禁欲的になり、「生きるエネルギー」や「現実世界(生態系含む)との健全な関わり」を軽視してしまう可能性は、その「弱点」あるいは「課題」として認識されるべきかもしれません。「涅槃」という理想が、現実逃避的に機能してしまうリスクも考慮すべきでしょう。
ただし、仏教の持つ多様な解釈や流派を考慮すると、「欲望すべてを否定し現実から離脱する」ことが仏教の唯一の姿ではありません。むしろ、縁起や慈悲の思想を通じて、現実世界や生態系との調和的な共生を目指す道も、仏教の中に豊かに存在しています。
西洋思想の「弱点」と対比する形で、仏教(東洋思想)の持つ可能性のある「弱点」を指摘されたことで、どちらか一方を絶対視するのではなく、それぞれの思想が持つ光と影を弁証法的に捉える、より深い視座が得られたように思います。
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