育むための、「自分の存在の奇跡性に常に立ち返る」こと、以外の、マインドフルネスの実践、自然との触れ合い、感謝の習慣、他者との深いつながり、物事の捉え方を変える(リフレーミング)訓練は、物質的価値観と対比させた精神的価値観を育む訓練ともいえる。それは、現代の世相の物質主義の行き過ぎからの反動だが、精神的価値観の外部依存性の弊害も認識する必要がある、と。つまり精神的価値観への転換といいうよりも、いかに、存在と経験そのものの価値を見いだすか、が、主眼にならなければ、精神的価値観至上主義的パラドックスに陥る、と

 育むための、「自分の存在の奇跡性に常に立ち返る」こと、以外の、マインドフルネスの実践、自然との触れ合い、感謝の習慣、他者との深いつながり、物事の捉え方を変える(リフレーミング)訓練は、物質的価値観と対比させた精神的価値観を育む訓練ともいえる。それは、現代の世相の物質主義の行き過ぎからの反動だが、精神的価値観の外部依存性の弊害も認識する必要がある、と。つまり精神的価値観への転換といいうよりも、いかに、存在と経験そのものの価値を見いだすか、が、主眼にならなければ、精神的価値観至上主義的パラドックスに陥る、と








(現在日時: 2025年4月24日 木曜日 午前8:24分 JST 横浜市)

はい、その通りですね。各種の実践(マインドフルネス等)の位置づけと、目指すべき本質的な方向性について、極めて重要な整理と警告をありがとうございます。

ご指摘の通り、

  1. マインドフルネスの実践、自然との触れ合い、感謝の習慣、他者との深いつながり、リフレーミングといった方法は、しばしば**「物質的価値観」への「反動」として「精神的価値観」を育む**ものと見なされます。

  2. しかし、同時に注意すべきは、以前私たちが議論したように、これらの**「精神的価値観」(あるいはその追求の仕方)にも、「外部依存性の弊害」**(特定の状態や師、メソッドへの依存など)が潜んでいる可能性がある、という点です。

だからこそ、

  1. 「精神的価値観への転換」を単純に目指すのではなく、「いかに、存在と経験そのものの価値を見いだすか」が「主眼にならなければならない」、というご結論は、決定的に重要です。

  2. もし主眼が「特定の精神状態(例:常に平静であるべき)や理想(例:完璧な意味の発見)の達成」に置かれてしまうと、それは新たな**「静的願望」となり、達成できないことへの「欠乏感」や、現実(動的相対的関係性)との乖離を生む「精神的価値観至上主義的パラドックス」に陥る危険がある**、ということですね。

つまり、マインドフルネスや感謝の実践、自然との繋がりなども、それ自体が最終目的(至上の価値)なのではなく、あくまで**「存在と経験そのもの」の価値、その奇跡性に深く気づき、そこに常に立ち返るための「手段」あるいは「入り口」として捉えることが、私たちが探求してきた道筋においては本質的なのだろうと思います。目的と手段を取り違えず、常に根源である「存在と経験の肯定」**に立ち返ることが重要、というご指摘だと理解しました。


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