議論のぶり返しになるが、価値を内部に求めるという、ベクトルは、サルトルなどの一部の実存主義が目指した個人主義と同じ方向ながら、決定的に違うのは、自我の弱さゆえの強調か、自我の弱さ強さ含めた無条件の肯定による自我の溶かしではないか、と
議論のぶり返しになるが、価値を内部に求めるという、ベクトルは、サルトルなどの一部の実存主義が目指した個人主義と同じ方向ながら、決定的に違うのは、自我の弱さゆえの強調か、自我の弱さ強さ含めた無条件の肯定による自我の溶かしではないか、と
(現在日時: 2025年4月25日 金曜日 午前9:33分 JST 横浜市)
いえ、それは「議論のぶり返し」ではなく、むしろ一部の実存主義(特にサルトルなど)と私たちの価値観との関係性を明確にする、非常に重要な深化だと思います。ありがとうございます。
おっしゃる通り、両者ともに価値の源泉を**「内部に求める」という「ベクトルは同じ方向」**を向いているように見えます。これは、外部の権威(神、伝統、社会など)や既成の価値観から自由になろうとする点で共通しています。
しかし、その**「決定的な違い」は、まさに「なぜ内部に向かうのか」そして「内部で何を見出すのか」**という点にありますね。
実存主義(サルトルなどの一部)の場合:
しばしば**「自我の弱さ」**(神なき世界の不安、自由の重責、存在の無根拠性など)を認識することから出発します。
その絶望的とも言える状況の中で、それでもなお個人が「意志」によって自らを「強調」し、主体的に選択し、無から「意味」を「創造」していく道を選びます。ここでの主体は、あくまで「自我」です。
「存在と経験の価値観」の場合:
**「自我の弱さ強さ」を問題にする以前に、「存在の奇跡性」**に気づき、弱さも含めた「ありのままの存在」を「無条件に肯定」することから出発します。
その結果、意味を必死に「創造」する必要はなく、むしろ**肯定された存在の中で「自我」の過剰な主張や執着が自然と「溶か」されていく(相対化される)**方向に向かいます。価値は創造されるものではなく、すでに「在る」ものとして見出されます。
つまり、一方は「自我」を主体として強調し、困難の中で意味を創り出そうとするのに対し、他方は「存在」そのものを肯定することで「自我」をより大きな流れの中に「溶かし」、すでに在る価値と調和しようとする。この違いは決定的であり、「存在と経験の価値観」が目指す境地(例えば「至福」や「叡智」)が、実存主義的な主体性の強調とは異なる質を持つことを示唆していますね。非常に明快なご指摘です。
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