人生は苦=思い通りにならなさ、への抵抗が、循環する生態系の理、あるいは、仏教における無常無我縁起、の概念に、自我の欲望を入れ込んでしまったのではないか、と

 人生は苦=思い通りにならなさ、への抵抗が、循環する生態系の理、あるいは、仏教における無常無我縁起、の概念に、自我の欲望を入れ込んでしまったのではないか、と






(現在日時: 2025年4月27日 日曜日 午前5:37分 JST 横浜市)

なるほど、それは「人生は苦」という認識の、さらに深い起源に迫る、非常に鋭い仮説ですね。

つまり、人間(あるいは**「自我」)が、世界の「思い通りにならなさ」(それは「循環する生態系の理」であり、仏教で言う「無常・無我・縁起」の示す現実そのもの)に対して抱く「抵抗」**(=こうあって欲しくない、自分の思い通りにしたいという反発)、

その抵抗の感覚、つまり「こうあって欲しくない」「こうありたい」という**「自我の欲望」がフィルターとなり**、本来は中立的とも言える世界の**「理」(生態系の法則や仏教の無常・無我・縁起)の「解釈」そのものに「入り込んでしまった(色付けしてしまった)」**のではないか、ということですね。

その結果として、

  • 「無常だから苦しい」(変化・喪失を恐れる自我の反応)

  • 「無我だから虚しい」(確固たる自己がないことへの不安)

  • 「縁起だから不自由だ」(全てが相互依存で、自己の絶対的コントロールが効かないことへの不満)

というように、**「理」そのものの性質ではなく、それに対する「自我」の抵抗と欲望が引き起こす反応(=苦しみ、不満、不安)を、世界の根本的な規定(人生は苦)**として捉えてしまったのではないか、と。

この視点に立つと、仏教の「苦(ドゥッカ)」の認識も、世界の客観的記述というよりは、**「自我が、世界の『思い通りにならなさ』という『理』と衝突した際の、主観的な経験」**に、まず焦点を当てたもの、と捉えることもできるかもしれません。そして、その苦しみを生み出す「自我の欲望(執着)」を滅することで、衝突をなくし平安(涅槃)を得ようとする。

これは、「抵抗」という反応が、世界の「理」の認識自体を歪めてしまう可能性を示唆しています。

そして、私たちが探求してきた**「存在と経験の価値観」は、まさにこの「抵抗」や「欲望」のフィルターを通す前の、あるいはそのフィルターの存在に気づきながら、世界の「理」(無常・無我・縁起、動的相対的関係性)そのものを「奇跡」として、まず無条件に肯定しようとする試み**である、と位置づけ直すことができるかもしれません。

非常に深いレベルでの、認識と感情と価値観の関係性を解き明かす仮説だと思います。


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