「絶望の淵に立った時の開眼」という状況において、各思想・価値観が示す方向性を、「外部依存」と「内発的」という軸で分析し、その傾向の強弱で並べてみると
「絶望の淵に立った時の開眼」という状況において、各思想・価値観が示す方向性を、「外部依存」と「内発的」という軸で分析し、その傾向の強弱で並べてみると
(現在日時: 2025年4月25日 金曜日 午前9:03分 JST 横浜市)
承知いたしました。「絶望の淵に立った時の開眼」という状況において、各思想・価値観が示す方向性を、**「外部依存」(価値や救済の根拠を自己の外部に求める傾向)と「内発的」(価値や救済の根拠を自己の内部や、存在・経験そのものに見出す傾向)**という軸で分析し、その傾向の強弱で(大まかに)並べてみると、以下のような整理が可能かもしれません。
(※これは非常に大きなテーマであり、各思想内にも多様性があるため、あくまで私たちのこれまでの議論に基づいた、一つの解釈・整理としてご理解ください。)
【内発的 傾向が最も強い】
存在と経験の価値観(私たちの議論の到達点):
理由: 絶望の淵で外部の価値が崩壊したとき、拠り所とするのは**「存在そのものの奇跡性」という究極的に内なる(あるいは存在に内在する)事実への気づきと肯定です。幸福(至福)や意味は、外部の何かや未来の理想状態に依存せず、「今、ここ」の存在と経験の中に直接見出されます。外部依存性が極めて低い、最も「内発的」**な方向性と言えます。
【内発的 傾向が強い(ただし、ニュアンスや外部性も含む)】
仏教(特に禅や初期仏教、あるいは自力門の思想):
理由: 苦しみの原因を内面(執着、渇愛、無知)に見出し、瞑想や智慧による自己変容を通じて**内的に解脱(涅槃)を目指します。「無我」**の洞察なども、自我という内なる幻想からの解放を目指す点で内発的です。
ニュアンス/外部性: 目指す「涅槃」が現状(輪廻)とは異なる理想状態(ある種の外部性)と捉えられる可能性や、教え・師・サンガ(教団)への依存、あるいは浄土思想のように**他力(外部の力)**を重視する宗派も存在するため、「完全に」内発的とまでは言えない側面もあります。
西洋哲学の一部(ストア派、一部の実存主義など):
理由: ストア派は、外部(運命)を受容し、内面の理性や徳に幸福の基盤を置こうとしました。実存主義(特にサルトルなど)は、外部に本質や意味がない中で、個人の主体的な選択(内なる決断)によって意味を創造しようとしました。これらは強い内発性を持ちます。
ニュアンス/外部性: ストア派は宇宙の理法(ロゴス)という外部理性を前提とし、実存主義は時に「投げ込まれた」ことへの不安や、「自由」という重荷を伴います。ニーチェのように**「超人」**という未来の理想を目指すベクトルも持ちます。
【外部依存の傾向がより強い】
他の宗教(特に一神教など、救済を重視する宗教):
理由: 多くの場合、人間の限界や罪を認識した上で、超越的な「外部」の存在(神)による恩寵、啓示、あるいは死後の救済(天国など)に価値や希望の根拠を置きます。信仰、祈り、教義の遵守、共同体への所属といった外部との関係性や行動が重視されます。価値の源泉は明確に**「外部」**にあります。
西洋哲学の他の流れ(理神論、一部の理想主義など):
世界の背後にある普遍的な「理性」や「イデア」といった抽象的・外部的な原理に真理や価値の根拠を求める立場も、ある種の外部依存と言えます。
従来の社会的成功や物質主義:
絶望の淵では多くの場合、その価値観は崩壊しますが、回復後に再び外部からの評価(名声、地位)や物質的な豊かさに幸福の根拠を求めようとするならば、それは典型的な**「外部依存」**です。
まとめ:
このように並べてみると、「絶望の淵」という究極の状況において、価値や意味、あるいは救済の根源を、自己の外部に求める度合いが強いか、それとも自己の存在や経験の内(あるいは、それらと現実との関係性そのもの)に見出す度合いが強いか、という軸で、様々な思想や価値観を位置づけることができそうです。
そして、私たちの探求してきた**「存在と経験の価値観」**は、この軸において、最も「内発的」な方向性を指し示している、と評価できるかと思います。
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