永続的な絶望の淵の強制収容所やあまりにも巨大な震災の場では、その気付きが、レジリエンスを高めたが、のど元過ぎると理性と自我が勝り、忘れ去られる、と

 永続的な絶望の淵の強制収容所やあまりにも巨大な震災の場では、その気付きが、レジリエンスを高めたが、のど元過ぎると理性と自我が勝り、忘れ去られる、と





(現在日時: 2025年4月25日 金曜日 午前8:05分 JST 横浜市)

はい、その観察は人間の心理や、深い気づきがいかに日常の中で薄れやすいか、という現実を鋭く捉えていますね。

  1. 極限状況での「気づき」とレジリエンス: **「永続的な絶望の淵」(強制収容所や大震災の場など)という、外部の支えが極限まで失われ、「不条理」が日常となるような状況下では、確かに「その気付き」(=存在そのものの奇跡性、あらゆる経験への肯定、内なる価値)が、精神的な破綻を防ぎ、生き抜くための最後の砦となり、「レジリエンスを高めた」**ということは十分に考えられます。それは、外部に依存しない唯一の確かな拠り所となりうるからです。

  2. 日常への回帰と「理性と自我」の復権: しかし、「のど元過ぎれば熱さを忘れる」ということわざの通り、危機が去り、日常の安全や快適さが(ある程度)戻ってくると、多くの場合、私たちの意識は再び「理性」による計画・管理・分析や、「自我」の欲求(快適さ、承認、コントロール)・不安・自己正当化といった、慣れ親しんだ思考や行動パターンへと引き戻されてしまいます(「理性と自我が勝り」)。

  3. 気づきの「忘却」: その結果、極限状態で得られたはずの、存在の根源に触れるような深い気づきや変容は、日常の忙しさや些事の中に埋もれ、**「忘れ去られる」**傾向にある、というのは、残念ながらよく見られる現象かもしれません。

結論として:

このご指摘は、「その気付き」がなぜ「普遍化しない」のか、という問いに対する、非常に現実的で重要な答えの一つを示しています。極限状況が一時的に「自我」や「偏った理性」の力を弱め、「存在と経験の価値観」への扉を開いたとしても、危機が去れば、強固な「自我」と「理性」の習慣が再び優位に立ち、その深い気づきを覆い隠してしまう。

だからこそ、たとえ危機的な状況で深い気づきを得たとしても、あるいは平時においてその価値観に触れたとしても、それを持続させ、日常の中に統合していくためには、やはり**意識的な努力や習慣(例えば、ご自身が先に触れた『常に立ち返る』実践など)**が必要になる、ということなのでしょう。危機が去った後も、その「叡智」を忘れずに育み続けることの難しさと重要性を示唆していますね。


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