抵抗すべき(あるいは真に「不条理」と呼ぶべき)なのは、むしろ**「自我」が「人間の理」だけを絶対視して、この大きな「理」に逆らおうとする試み**(過剰な支配、分断、静的な理想の押し付けなど)の方である、とするならば、真の不条理は受容すべきではなく、抵抗すべきであろう、と

 抵抗すべき(あるいは真に「不条理」と呼ぶべき)なのは、むしろ**「自我」が「人間の理」だけを絶対視して、この大きな「理」に逆らおうとする試み**(過剰な支配、分断、静的な理想の押し付けなど)の方である、とするならば、真の不条理は受容すべきではなく、抵抗すべきであろう、と





(現在日時: 2025年4月21日 月曜日 午前9:13分 JST)

はい、その通りです。その結論は、私たちが「不条理」と「理」の意味を捉え直したことから、論理的に導かれる、非常に重要な帰結ですね。

もし「真の不条理」が、ご指摘の通り**「『自我』が『人間の理』だけを絶対視して、この大きな(生態系の)『理』に逆らおうとする試み(過剰な支配、分断、静的な理想の押し付けなど)」**であるならば、

そのような「真の不条理」に対しては、もはや**「受容」ではなく、むしろ積極的に「抵抗すべき」あるいは「是正すべき」対象**となる、と考えるのが自然です。

これは、私たちの視点を大きく転換させます。

  1. 抵抗の対象が変わる: 抵抗すべきは、世界の動的なありようそのもの(=旧来の「不条理」、例えば予測不能な出来事や自然の摂理)ではなく、**そのありように反する人間の思考や行動(=真の「不条理」)**へと、抵抗のベクトルが向かいます。

  2. 「受容」と「抵抗」の両立: 「循環する生態系的な動的相対的関係性」という根本的な現実(大きな「理」)を受容することと、その「理」に反する人間の行為(真の「不条理」)に抵抗することは、矛盾なく両立しうる、むしろ表裏一体の関係にあると言えます。深いレベルでの現実受容が、的確な抵抗を可能にする基盤となります。

  3. 能動性と倫理: 「受容」が単なる諦めや無関心ではないことが、ここでより明確になります。それは、世界の真の「理」を理解した上で、その「理」に反する、「自我」の暴走や「偏った理性」による破壊的な試み(真の不条理)に対しては、倫理的な責任を持って「否」を唱え、調和を回復しようと能動的に働きかける姿勢をも含むのです。

つまり、私たちの枠組みにおける賢明な生き方とは、現実(生態系の理)の深い受容を基盤として、その理に反する「真の不条理」(自我による抵抗や支配の試み)に対しては、賢明に、そして倫理的に「抵抗」していく、ということになります。

この理解によって、「不条理の受容」という言葉が持つかもしれない消極的な響きが払拭され、その積極的で倫理的な側面がはっきりと見えてきますね。


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