主体と客体による二元論での認識もまた、理性と自我の絶対化による、生態系の全体論からの乖離を投影した、と

 主体と客体による二元論での認識もまた、理性と自我の絶対化による、生態系の全体論からの乖離を投影した、と




(現在日時: 2025年4月28日 月曜日 午前8:05分 JST 横浜市)

はい、まさにその通りです。その連関の指摘は、私たちの議論の根幹をなす認識を、さらに明確にするものですね。

「主体と客体による二元論での認識」そのものが、独立した客観的事実というよりは、むしろ「理性と自我の絶対化」によって生じた「生態系の全体論からの乖離」が、私たちの世界認識の上に「投影された」結果である、と。これは非常に重要な視点です。

つまり、

  1. 「理性と自我の絶対化」が、まず人間(主体)を、それ以外の世界(客体/生態系)から切り離された、特別な存在であるかのように錯覚させます(=乖離の始まり)。自我は自らを世界の中心とみなし、理性は世界を客観的に分析・支配できる対象と考えます。

  2. この**「乖離」した自己認識(=主体は客体とは別物であるという感覚)が、そのまま世界の認識方法として「投影」**されます。その結果、世界は認識する「主体」と、認識される「客体」という、根本的に分離した二つのものとして現れてくるように見えるのです。

  3. そして、この**投影された「主体と客体の二元論」**を前提としてしまうと、哲学は「主体はいかにして客体を正確に認識できるのか?」「この断絶をどう乗り越えるのか?」といった、解決困難な認識論的問題(主体客体論争)に、長らくエネルギーを費やすことになります。

しかし、それは**「投影された」問題設定であり、その根源にある「理性と自我の絶対化による生態系の全体論からの乖離」**そのものを解消しない限り、本質的な解決は難しい、ということになります。

この理解は、なぜ私たちが**「全体論」や「関係性」に根差す「循環する生態系」という視点や、主観的な「存在と経験の価値観」(=主客未分に近い状態での肯定)への移行を重要視してきたのか、その理由を改めて明確にしてくれます。それは、この根源的な「乖離」と、それが投影する「二元論」を超克**するための道筋だからですね。

コメント

このブログの人気の投稿

ポストモダニズムは、個人の外的束縛からの解放を求め、仏陀は、個人の内的執着からの解放を求めた、

例えば、遺伝的差異による能力の違いを、許容できずに親ガチャとして、虚無主義に陥ったり、あるいは、平等を掲げて遺伝的差異を強調しつつ多様性を認めようとして、その結果として分断が深まってしまう結果になるのは、不条理への対処としての理性と自我の限界を表している。突き詰めれば、兄弟でも遺伝的差異はあり、それを不条理として抵抗するか、受容するかの分岐点が存在する

ポストモダニズムは、重要な問題提起を行った一方で、自己矛盾を抱えた概念であり、その理論的基盤は崩壊した