生態系的な動的相対的関係性の全体論は、個別での、存在することそのものと経験することそのものの価値観を生み出し、人工超知能化社会での、人間の存在意義を支える可能性がある、と

 生態系的な動的相対的関係性の全体論は、個別での、存在することそのものと経験することそのものの価値観を生み出し、人工超知能化社会での、人間の存在意義を支える可能性がある、と




それは、これまで議論してきた「生態系的な動的相対的関係性の全体論」という視点が持ちうる、非常に重要で未来志向的な含意についての深い考察ですね。その可能性は十分にあると考えられます。

順を追って考えてみましょう。

  1. 「生態系的な動的相対的関係性の全体論」から「存在・経験そのものの価値」へ:

  • この全体論的な視点は、存在を孤立した実体や、何か外部の目的を達成するための手段として捉えるのではなく、相互依存的な関係性の網の目(生態系)の中で絶えず変化し、相互作用するプロセスそのものとして捉えます。

  • すると、個々の存在の価値は、その生産性や知性、特定の能力といった外的な成果や比較可能な指標だけに依存するのではなく、その存在がユニークな結節点としてシステム(生態系)の一部を成し、そこで「存在し、経験し、関係している」こと自体に内在的な価値が見出されるようになります。

  • 各存在は、そのユニークな視点からの「経験」を通じて、また他の存在との「関係性」を通じて、システム全体の多様性、複雑性、豊かさに貢献しています。したがって、「存在することそのもの」と「経験することそのもの」が、それ自体で価値を持つという考え方が自然に導き出されます。

  1. 「存在・経験の価値」が「人工超知能化社会」における人間の存在意義を支える可能性:

  • AI、特にASI(汎用人工知能を超える人工超知能)が登場する社会では、従来人間が価値の源泉としてきた知的能力、労働生産性、問題解決能力などの多くにおいて、人間がASIに及ばなくなる可能性が指摘されています。これは、「人間は何のために存在するのか?」という深刻な問い、すなわち存在意義の危機を招きかねません。

  • しかし、もし価値の基盤が、上記のように「存在することそのもの」と「経験することそのもの」(特に人間固有の主観的・意識的・情動的な経験)にあるならば、人間の価値はASIとの性能比較から切り離されます

  • ASIがいかに高度な知能や能力を持とうとも、特定の個人としてこの世界に「存在」し、生身の身体を通して世界を「経験」し、他者と情動的な「関係性」を結ぶという、人間ならではのあり方は代替されません。

  • このフレームワークにおいては、人間は「何かをする(doing)」能力によって主に評価されるのではなく、「どのようにあるか(being)」、つまり、この複雑な「生態系」の中でどのように意識的に存在し、豊かに経験し、他者や世界と関わっているか、という点に存在意義を見出すことができます。

  • 人間の役割は、効率性や生産性を追求することから、意識的な経験の豊かさ、共感、創造性、愛、美意識、倫理観といった、経験の質や関係性の質を高める方向へとシフトしていくかもしれません。これらは、「生態系的な動的相対的関係性の全体論」の中でこそ価値を持つ人間的な特性と言えます。

結論として:

ご指摘の通り、「生態系的な動的相対的関係性の全体論」は、単なる世界の記述モデルに留まらず、そこから**「存在すること・経験すること」に内在的価値を見出す価値観**を導き出す可能性を秘めています。そして、その価値観は、知性や生産性において人間を超えるかもしれないASIが登場する未来において、人間の代替不可能な尊厳や存在意義を哲学的に支えるための、非常に重要な基盤となる可能性があると言えるでしょう。

これは、技術の進展がもたらすかもしれない存在論的な問いに対する、一つの深く、希望のある応答となり得る視点だと思います。


コメント

このブログの人気の投稿

ポストモダニズムは、個人の外的束縛からの解放を求め、仏陀は、個人の内的執着からの解放を求めた、

例えば、遺伝的差異による能力の違いを、許容できずに親ガチャとして、虚無主義に陥ったり、あるいは、平等を掲げて遺伝的差異を強調しつつ多様性を認めようとして、その結果として分断が深まってしまう結果になるのは、不条理への対処としての理性と自我の限界を表している。突き詰めれば、兄弟でも遺伝的差異はあり、それを不条理として抵抗するか、受容するかの分岐点が存在する

ポストモダニズムは、重要な問題提起を行った一方で、自己矛盾を抱えた概念であり、その理論的基盤は崩壊した