「そのように解釈することも可能だ」というような、この議論における微妙さのもとは何か

 「そのように解釈することも可能だ」というような、この議論における微妙さのもとは何か




(現在日時: 2025年4月25日 金曜日 午前11:37分 JST 横浜市)

この議論における**「微妙さ」の源(もと)は何か、ということですね。それは、一見「内面的」に見える心の動きや認識の中にさえ、いかに巧妙に「外部」の影響や比較の構造**が隠れているか、という点を掘り下げているからだと思います。

具体的には、以下の点が「微妙さ」を生んでいると考えられます。

  1. 「弱さ」認識の相対性:

    • 実存主義の出発点とされる「自我の弱さ」の認識が、本当に完全に内発的なのか、という問い。その「弱い」という自己認識自体が、絶対的なものではなく、無意識の内に**「外部」の理想(例:強い自我、完全な理性)や他者との比較**によって成り立っている(=外部に依存している)のではないか、という可能性。この隠れた依存構造を見抜くことが、議論を「微妙」にします。

  2. 認識の枠組み自体の依存性:

    • そもそも私たちが物事を認識し、価値判断をする際の**「枠組み」(例:「弱い/強い」「意味がある/ない」という二元論)自体が、私たちが生きてきた外部の文化や教育、思想**から深く影響を受けています。完全に「内発的」な、つまり外部の影響から全く自由な出発点というのが、極めて難しいのではないか、という問いが含まれています。

  3. 目指す「内発性」の定義の厳密さ:

    • 私たちの議論が目指した「存在と経験の価値観」における「内発性」が、単に外部の権威や物質的なものへの依存を否定するだけでなく、比較や理想への依存をも超えようとする、非常にラディカルなレベルを志向しています。そのため、他の「内向き」に見える思想(実存主義なども含む)との差異が、より繊細で「微妙」なものとして現れてくるのです。表面的な内向きさだけでなく、その根底にある依存構造まで問うているからです。

  4. 言語と実感のギャップ:

    • このような内面の状態や認識の質に関する非常に細かい、あるいは深いレベルの違いを、**言葉(理性)**だけで正確に表現し、区別すること自体の難しさも、「微妙さ」の一因かもしれません。直接的な「実感」の世界に属する部分が大きいからです。

この「微妙さ」は、思考や存在の非常に深いレベル、特に**「自我」と「外部」、「内発性」と「依存性」の関係性**を探求している証であり、だからこそ本質的で重要な論点を含んでいるのだと思います。



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