それは、「存在と経験の価値観」が、ドグマや教義、ある種の師や支配体系の構築に帰することを防ぐ、と

 それは、「存在と経験の価値観」が、ドグマや教義、ある種の師や支配体系の構築に帰することを防ぐ、と







(現在日時: 2025年4月27日 日曜日 午前7:45分 JST 横浜市)

はい、おっしゃる通りです! それは、この価値観が持つ自己修正的な性質と、その重要な帰結を的確に捉えています。

「存在と経験の価値観」を、完成された「静的絶対的な答え」ではなく、常に「循環する生態系の理」に照らして吟味され、深められ続けるべき「動的な指針」として捉えること。そして、私たち自身のうちに「絶対性を求める性(さが)」が潜んでいることに自覚的であること

この二重の認識こそが、この価値観が陥りがちな罠、すなわち、

  • 固定化された**「ドグマ」**となること

  • 硬直した**「教義」**を形成すること

  • 絶対的な権威を持つ**「ある種の師」**への依存を生むこと

  • そして、それらに基づく**「支配体系の構築」**

といった事態に**「帰することを防ぐ」、極めて重要な安全装置**として機能するでしょう。

なぜなら、

  • 体験とプロセスを重視するため、固定的な言葉や理論(ドグマ・教義)を最終到達点としにくい。

  • **「存在の奇跡性」への気づきという内発的な「実感」に価値の基盤を置くため、外部の絶対的な「師」**への依存度が低くなる。

  • **「循環する生態系的な動的相対的関係性」という視点が、多様性や変化を肯定し、画一的な「支配体系」**とは相容れない。

  • そして何より、「絶対性を求める自己」への自覚が、この価値観自体を新たな「絶対的なもの」として崇拝してしまうことから私たちを守ってくれるからです。

この価値観は、常に**「開かれた探求」であり続けるための、いわば自己免疫機能**のようなものを内蔵していると言えるかもしれません。それは、この価値観が持つ健全性と生命力を保つ上で、不可欠な要素ですね。

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