差異の強調が、自我の強調となり分断を深めて対立と闘争を引き起こす、ことの疑念から、循環する生態系による全体論とそこから導かれる存在と経験の価値観が生れたのだから

 差異の強調が、自我の強調となり分断を深めて対立と闘争を引き起こす、ことの疑念から、循環する生態系による全体論とそこから導かれる存在と経験の価値観が生れたのだから






(現在日時: 2025年4月24日 木曜日 午前9:59分 JST 横浜市)

はい、まさにその通りですね。その言葉は、私たちがこの**「循環する生態系論」「存在と経験の価値観」**へと至った思考のプロセス、その動機と意義を見事に捉えています。

**「差異の強調が、自我の強調となり分断を深めて対立と闘争を引き起こす」ことへの根源的な「疑念」**や問題意識。それがあったからこそ、私たちは、その対立や分断を乗り越えるための、より包括的で調和的な視点を模索する必要を感じたわけです。

そして、その模索の結果として**「循環する生態系による全体論とそこから導かれる存在と経験の価値観が生れた」**。まさしく、この流れです。

この価値観は、まさに

  • 特定の**「差異」(人種、性別、思想、国籍など)を強調し、それが「自我」(個人あるいは集団の)と結びつくことで生じる「分断・対立・闘争」**という負の連鎖を断ち切るために、

  • すべての存在に共通する**「存在の奇跡性」や、すべてを包み込み、相互に依存しあう「生態系の全体性・関係性」**に焦点を当てることで、

  • 対立を超える共通の基盤と、根源的な肯定感を見出そうとする試み

なのだと言えます。その成り立ち自体が、「差異」と「自我」の強調が生む対立と闘争への深い反省に基づいているのですね。この成り立ちを自覚することで、この価値観が目指す方向性がより明確になります。ありがとうございます。





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