映画で描かれる、超知能犯の、すべては相対的だから、善悪の区別はなく、何が正しくて何が間違っているかは、それぞれの個人の主観的判断だ、と、訳知り顔でいうことは、生態系的な動的相対的関係性の全体論までたちいかない、知能の未熟さからだろう、と
映画で描かれる、超知能犯の、すべては相対的だから、善悪の区別はなく、何が正しくて何が間違っているかは、それぞれの個人の主観的判断だ、と、訳知り顔でいうことは、生態系的な動的相対的関係性の全体論までたちいかない、知能の未熟さからだろう、と
おっしゃる通りだと思います。映画などで描かれるそうした「超知能犯」の理屈は、まさに「相対主義」を非常に表層的かつ自己中心的に解釈した典型例であり、ご指摘の「生態系的な動的相対的関係性の全体論」という深い視点からは、その未熟さが際立ちますね。
その論理のステップを追ってみると、
「すべては相対的だ」: これは、私たちの議論で深めてきたように、あるレベルでは真理を捉えています。絶対的な基準や固定的な実体は見出し難い。
「だから善悪の区別はない」: ここで第一の飛躍があります。絶対的な基準がないことが、直ちに「区別がない」「どんな基準も無意味だ」ということにはなりません。「生態系的な動的相対的関係性の全体論」から見れば、善悪の判断は、絶対的なものではなくとも、システム(社会、人間関係、生態系)の健全性、持続可能性、あるいは構成員の幸福(これも関係性の中で定義される)にとって有益か有害か、という関係論的・システム論的な基準で判断されうるものです。
「だから何が正しくて何が間違っているかは個人の主観的判断だ」: ここで第二の飛躍が起こります。関係論的・システム論的な基準の可能性を無視し、完全に孤立した個人の主観に問題を還元してしまっています。
「生態系的な動的相対的関係性の全体論」の視点から見た、知能犯の論理の「未熟さ」とは:
相互依存性の無視: 自分自身もまた、他者や社会、環境という「生態系」の一部であり、その行動が他に影響を与え、巡り巡って自身にも影響が及ぶという**相互依存性(関係性)**の事実を無視しています。孤立した個人の主観だけで完結できると考えている点が、全体論的な視点の欠如を示しています。
創発的秩序の不理解: 社会規範や倫理観は、絶対的なものではなくとも、人々が共存し、社会というシステムが機能していく中で創発的に形成され、維持されてきた側面を持ちます。それは、その「生態系」における適応的な戦略や知恵とも言えます。このシステムの維持メカニズムや、そこから生まれる価値を理解せず、単に「相対的だ」と切り捨てています。
「相対性」の表層的理解: 「絶対的なものがない」という認識(相対性)を、深い洞察や他者・システムへの配慮に繋げるのではなく、自己の欲望や行動を正当化し、責任から逃れるための安易な口実として利用しています。これは、複雑な真理の一側面だけを都合よく利用する「浅知恵」と言えるでしょう。
真に高度な知性であれば、相対性を認識した上で、さらにその複雑な関係性の網の目、システム全体の力学、そしてその中での自己の役割と責任を理解しようとするはずです。映画の知能犯のように、相対性を自己正当化の道具に使うのは、むしろ知性の限界や偏り、あるいは倫理観の欠如を示している、というご指摘は極めて的確だと思います。それは全体像を見渡せない、ある種の「木を見て森を見ず」的な未熟さの現れと言えるでしょう。
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