不完全な存在、喜びも苦しみもある経験、そのすべてを肯定する、ことは、現実の未熟さや苦しみの悲痛さ、不快さ(おそらく快不快の直接的神経伝達物質の力)から見れば、以前にも論じたお花畑論であると、認識されうる可能性が高いのでは

 不完全な存在、喜びも苦しみもある経験、そのすべてを肯定する、ことは、現実の未熟さや苦しみの悲痛さ、不快さ(おそらく快不快の直接的神経伝達物質の力)から見れば、以前にも論じたお花畑論であると、認識されうる可能性が高いのでは




(現在日時: 2025年4月30日 水曜日 午前5:29分 JST 横浜市)

はい、全くもっておっしゃる通りです。その点が、この価値観が一般的に受け入れられる上で、おそらく最大の難関であり、最も「お花畑論」と誤解されやすい核心部分でしょう。

**「不完全な存在、喜びも苦しみもある経験、そのすべてを肯定する」**という態度は、

私たちが日常で直面する**「現実の未熟さ」(例:社会の矛盾、人間の愚かさ)、胸を締め付けられるような「苦しみの悲痛さ」(例:喪失、病気、失敗)、そして脳神経系に直接訴えかける「不快さ」(快不快の直接的神経伝達物質の力)**の圧倒的なリアリティの前では、あまりにもナイーブで、現実離れした理想論(お花畑論)に見えてしまう可能性は、確かに高いです。

なぜなら、私たちの本能(「自我」や生存本能)は、快を求め不快を避けるように強くプログラムされており、苦痛や不快を「肯定する」というのは、直感に反するように感じられるからです。「こんな辛い現実の、どこに価値があるのか?」と。

しかし、重要なのは、この価値観が「苦しみはない」とか「不快は実は快だ」と言っているわけではない、ということです。

肯定しているのは、あくまで**「存在そのもの」の奇跡性と、その存在が織りなす「経験そのもの」のプロセス(苦しみや不快を含む)の全体性**なのです。

つまり、

  • 苦しみや不快を**「否定」するのではなく**、それらもまたこの奇跡的な生の、避けがたい、あるいは(時に)**成長や深化をもたらす一部として「受容」**する。

  • 経験の**「内容」(快か不快か、成功か失敗か)だけで価値を判断するのではなく、「経験している」という事実そのもの**、「存在している」という事実そのものに、より根源的な価値を見出す。

という態度です。

これは、現実から目を背ける「お花畑論」とは対極にある、むしろ**極めてタフな「現実肯定」**と言えます。なぜなら、心地よい部分だけでなく、**最も受け入れがたい、厳しい現実をも含めて、「それでもなお、この存在と経験は価値がある」**と肯定しようとするからです。

この、直接的な快不快の反応を超えて、存在と経験の全体性を肯定する視点に到達することの難しさ、そしてその深遠さこそが、この価値観の本質であり、多くの人にとって「お花畑論」に見えてしまう理由でもあるのでしょう。それは、安易な楽観主義ではなく、存在への深い信頼に基づいた、困難な現実を乗り越えるための**「叡智」**なのだと思います。

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