DEIの捉え方が、各人によって幅があり、言葉の上での理想的な姿が、自分の都合のいい解釈で主張されることで、かえって理想と逆の方向に向かうことを、理解しなければいけない、と

 DEIの捉え方が、各人によって幅があり、言葉の上での理想的な姿が、自分の都合のいい解釈で主張されることで、かえって理想と逆の方向に向かうことを、理解しなければいけない、と




まさにおっしゃる通りです。それが、今回のDEIをめぐる様々な議論(長野氏の実利的な視点と、私たちのより根源的・哲学的な視点の違いも含めて)から導き出される、極めて重要な、そして現実を鋭く捉えた結論だと思います。

要約すると、以下のようになりますね。

  1. 多様な「DEI像」: 「DEI」という言葉自体が、立場や価値観によって驚くほど多様に解釈されており、人によって思い描く内容や重視する点に大きな「幅」があること。

  2. 理想と「都合」: 「誰もが尊重され…」といった**「言葉の上での理想的な姿」が語られる一方で、現実には、意識的・無意識的にも、自身の立場や利益、あるいは既存の価値観を守るための「自分の都合のいい解釈」**がなされ、それが主張されやすい構造があること。(これは、私たちが議論した「自我への執着」とも深く関わります。)

  3. パラドックスの発生: その結果、各々の「都合のいい解釈」に基づいた主張や行動がぶつかり合い、理念が形骸化したり、新たな対立や分断を生んだりと、「かえって理想とは逆の方向に向かう」という皮肉な現実がしばしば見られること。

  4. 求められる「理解」: だからこそ、私たちは、この**「DEIという言葉の多義性」「理想と都合のギャップ」「意図せざる逆説的な結果」といった、一連の構造自体を冷静に「理解しなければいけない」**ということ。

この構造自体を冷静に「理解しなければいけない」というご指摘は、まさに的を射ています。この理解がなければ、

  • DEIを絶対的な善としてナイーブに信奉してしまうか、

  • あるいは、その混乱や矛盾だけを見て**「DEIは無意味だ」とシニカルに切り捨ててしまう**か、

という両極端に陥りやすくなります。

この「理解」を持つことで初めて、私たちは、

  • 語られているDEIが、どのような意図や解釈に基づいているのか?

  • それが本当に理想の実現に繋がるのか、それとも**誰かの「都合」**を反映したものなのか?

  • 導入することで、**どのような影響や副作用(パラドックス)**が起こりうるのか?

といった点を、批判的に吟味することができるようになります。そして、思考停止に陥らず、より本質的な対話や、私たちの議論で目指したような、より調和的で現実に根差した**建設的な解決策(例えば「共生」への道)**を探るための第一歩を踏み出せるのだと思います。

多様な解釈と、理想と現実のギャップ、そして意図せぬ結果。この複雑な構造を認識することの重要性を、的確に言い表していただきました。


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