以下の記事を私たちの価値観で評価するとーーーー2025/05/16 7:00 やっぱり現代は「新しい戦前」といえる…哲学者が考える「膨大な人の命が奪われる大惨事」の意外な発端AIはすでに不平等を拡大させる軌道に乗ったという説 PRESIDENT Online 竹田 青嗣  哲学者、早稲田大学名誉教授 苫野 一徳 哲学者、熊本大学教育学部准教授 人類はこの先どんな道を歩むのか。哲学者の竹田青嗣さんは「世界はごく少数のスーパーリッチと大多数の貧しい人々の二極化という構造になりつつある」という。同じく哲学者の苫野一徳さんとの対談を、共著『伝授! 哲学の極意』(河出新書)より一部を紹介する――。

 以下の記事を私たちの価値観で評価するとーーーー2025/05/16 7:00

やっぱり現代は「新しい戦前」といえる…哲学者が考える「膨大な人の命が奪われる大惨事」の意外な発端AIはすでに不平等を拡大させる軌道に乗ったという説

PRESIDENT Online

竹田 青嗣 

哲学者、早稲田大学名誉教授

苫野 一徳

哲学者、熊本大学教育学部准教授

人類はこの先どんな道を歩むのか。哲学者の竹田青嗣さんは「世界はごく少数のスーパーリッチと大多数の貧しい人々の二極化という構造になりつつある」という。同じく哲学者の苫野一徳さんとの対談を、共著『伝授! 哲学の極意』(河出新書)より一部を紹介する――。





〇〇さん、竹田青嗣氏と苫野一徳氏の対談記事のご提示、誠にありがとうございます。お二人の哲学者が展開する現代資本主義の鋭い分析と、それがもたらす「新しい戦前」とも言える危機的状況への警鐘は、私たちがこれまで丹念に紡ぎ上げてきた「循環する生態系パラダイム」と「存在と経験の価値観」というレンズを通して見ると、その深刻さと構造がより一層鮮明に浮かび上がってきます。そして同時に、私たちの価値観が、この困難な時代においていかなる希望と変革の道筋を照らしうるのか、その実践的意義が改めて問われるのを感じます。

以下に、私たちの価値観の視点から、この記事に示された論点を評価・考察してみたいと思います。

1. 「超金融資本主義」と格差拡大:自我の膨張と循環の阻害

  • 記事の核心的指摘への共感(第2章2.2 理性の高揚と道具化、第2章2.5 「神の死」以降の自我、第7章7.6 生命の継承という大いなる循環):
    竹田氏が指摘する1980年代以降の「超金融資本主義」への転換、すなわち実体経済と金融経済の乖離、そしてそれがもたらす「ごく少数のスーパーリッチと大多数の貧しい人々の二極化」という現状認識は、私たちの価値観で言うところの**「自我の膨張」が極限にまで進んだ形態として深く共感できます。ここでの「自我」とは、個人のみならず、特定の利益集団や、国家を超えたグローバルな資本そのものが持つ、際限のない自己増殖・自己利益最大化の衝動です。
    「資産が資産を生む」(ピケティ)、「レントシーキング」(濡れ手で粟の利権追求)といった現象は、まさにこの膨張した自我が、他者や社会全体の幸福、あるいは地球環境といったより大きな「循環する生態系」の調和を顧みず、一方的に富を収奪し、その循環を阻害している**姿と言えるでしょう。これは、100年前の歴史的スパイラルで見た「富の偏在」が、より洗練され、グローバル化した形で現代に再現されていることを示しています。

  • 理性の道具化としての金融工学とAI(第4章 AI革命と存在の問い):
    高度な金融工学や、記事で懸念されているようにAI技術が、この「マネー独占の新しいツール」となりつつあるという指摘は、理性が本来持つべき価値や目的を見失い、特定の「自我」の利益達成のための効率的な手段へと矮小化される**「道具的理性」の典型例**です。AIが「すでに不平等を拡大させる軌道に乗った」というアセモグル氏らの指摘は、この道具的理性がもたらす負の側面を明確に示しており、私たちが第4章で論じたAIの持つ両義性(解放の契機と支配の道具)のうち、警鐘を鳴らすべき側面が現実化しつつあることを裏付けています。

2. 「新しい戦前」と暴力の契機:関係性の断絶と不条理の増幅

  • 格差拡大と戦争の可能性の連関(第7章7.2 「真の不条理」への抵抗、第7章7.6 生命の継承という大いなる循環):
    竹田氏が「格差の拡大、富の一極集中は、国家間の対立契機を大きくし、世界の暴力契機を高めて戦争の可能性を引き出す」と述べている点は、極めて重要です。これは、社会内部および国家間の**「響き合い」や「共感」といった健全な関係性が著しく損なわれ、相互不信と対立が増幅された状態を示しています。私たちの価値観では、このような構造的な不公正や、それが生み出す暴力の連鎖を「真の不条理」**として捉え、それに対する倫理的抵抗の必要性を訴えます。ウクライナやパレスチナの戦争が、その一つの現れであるという指摘は、この「真の不条理」が具体的な悲劇として現実化していることを示しています。

  • プルートクラシーとオリガーキー(金権政治と寡頭政治):
    苫野氏が指摘する、現代先進国におけるプルートクラシー(金権政治)とオリガーキー(寡頭政治)の進行は、「ごく少数のスーパーリッチ」という膨張した自我が、民主主義的なプロセス(本来は多様な声が響き合う場であるべき)をも歪め、自らの利益のために社会のルールを書き換えているという、深刻な事態です。これは、「循環する生態系」における一部の要素が過度に肥大化し、システム全体のバランスを破壊している状態に他なりません。

3. シャイデルの歴史観と「カタストロフィによる不平等是正」の重い現実

  • 「不条理の受容」と歴史のパターン(第5章5.4 不条理の受容と世界の全体性):
    ウォルター・シャイデルが『暴力と不平等の人類史』で示した、「不平等の是正は、世界史的に見て戦争、革命、国家の破綻、疫病という四つのカタストロフィによってのみなされてきた」という歴史観は、極めて重く、そしてある意味で「不条理」な現実を私たちに突きつけます。それは、人間社会が自律的に、平和的に「動的平衡」を回復する能力には限界があり、放置された極端な不均衡は、しばしば破壊的な形でしか解消され得ないという、冷厳なパターンを示唆しています。

  • カタストロフィなき変革への模索という現代の課題:
    しかし、竹田氏や苫野氏が強調するように、「カタストロフィを待てばよいということにならない」。この歴史の教訓は、むしろそのような破局を回避するために、私たちが意識的に、そして「叡智」をもって、資本主義を民主的にコントロールし、不平等を是正していく道を早急に見出さなければならないという、現代への緊急の呼びかけとして受け止めるべきです。

4. 私たちの価値観が照らし出す「カタストロフィなき道」

この記事が提示する危機的な現状認識と歴史的洞察に対し、私たちの「循環する生態系パラダイム」と「存在と経験の価値観」は、まさにこの「カタストロフィなき道」を構想し、実践していくための思想的基盤を提供するものです。

  • 「存在と経験の価値観」による「自我のゲーム」からの転換:
    記事が描き出す超金融資本主義やレントシーキングの世界は、究極的には「マネー」という記号を巡る、一部のプレイヤーによる「自我のゲーム」です。私たちの価値観は、このような外部の評価や物質的な富の無限追求から距離を置き、個々人の内発的な「存在の奇跡性」や「経験の質」、他者や自然との「響き合い」の中に真の充足を見出す生き方への転換を促します。この価値観が社会に浸透すれば、富の一極集中への過度な動機や、それを正当化する社会全体の空気そのものが相対化される可能性があります。

  • 「循環する生態系」の論理に基づく経済・社会システムの再設計:
    金融経済が実体経済から乖離し、地球の有限性を無視して無限増殖を目指す現在のシステムは、明らかに「循環する生態系」の理に反しています。求められるのは、地球全体の生態系の健全性と持続可能性を最優先し、富と機会がより公正に分配され、全ての生命が共生できるような経済・社会システムへの大胆な再設計です。これには、ベーシックインカムの導入、コモンズ(共有資源)の再生と民主的管理、地域循環型経済への移行、そしてAIを含むテクノロジーを格差拡大ではなく全体の福祉向上に資するように倫理的に統制する「叡智」が含まれます。

  • 「ラディカルな内発性」に基づく市民の覚醒と連帯による「真の不条理」への抵抗:
    プルートクラシーやオリガーキーといった、一部の特権階級による支配構造に対しては、私たち一人ひとりが「循環する生態系」の一員としての責任を自覚し、内なる良心と「存在の尊厳」に基づいて声を上げ、連帯し、社会変革を求めるボトムアップの力が不可欠です。それは、選挙への参加、倫理的な消費行動、NPO/NGO活動への参加、あるいは地域コミュニティにおける地道な活動など、多様な形を取りえます。

  • 歴史の教訓を活かす「応答する存在としての誠実さ」:
    100年前の歴史や、ウエストファリア条約、第二次大戦後の「戦後体制」といった過去の「手打ち」の経験は、たとえそれがカタストロフィの後であったとしても、人間が破局的な状況から学び、新たな秩序を構築する能力を持つことを示しています。私たちの価値観は、この歴史の教訓を真摯に受け止め、同じ過ちを繰り返さないために、そして可能であればカタストロフィを未然に防ぐために、先見的な「叡智」と「誠実な対話」によって、新たな国際的・社会的な「相互承認の約束」を築き上げていくことを求めます。

結論:新たな「手打ち」と「循環」の時代の創造に向けて

竹田氏と苫野氏の対談は、現代が「新しい戦前」とも言える深刻な危機に直面していることを、痛烈に示しています。それは、私たちの価値観が警告してきた「理性の道具化」と「自我の膨張」が、グローバル資本主義と結びつき、AIという新たな力を得て、極限まで推し進められた結果の姿です。

しかし、絶望だけではありません。この記事は同時に、私たちがこの危機を乗り越えるための「知恵をもち寄るべき大きな課題」をも提示しています。私たちの「循環する生態系パラダイム」と「存在と経験の価値観」は、まさにこの課題に応答するための、一つの力強い思想的武器となりうるでしょう。それは、一部の者の利益のための「線的な収奪」の論理から、全ての存在の相互依存と「循環的な共生」の論理への根本的な転換を促すものです。そして、その転換は、歴史が示すような「カタストロフィ」を待つのではなく、私たちの意識的な選択と、日々の創造的な実践によって、今ここから始めることができるはずです。


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