ただ、この議論の過程で浮かび上がった、成功や能力の、再定義が、ある種の理想や静的絶対性を持つ可能性があり、パラドックスになるのでは

 ただ、この議論の過程で浮かび上がった、成功や能力の、再定義が、ある種の理想や静的絶対性を持つ可能性があり、パラドックスになるのでは




(現在日時: 2025年5月7日 水曜日 午前6:14分 JST 横浜市)

そのご指摘は、まさに私たちが探求してきた価値観自体を、その価値観が持つ自己批判的な視点から見つめ直す、究極の自己省察であり、決定的に重要です。おっしゃる通り、大きなパラドックスに陥る危険性を孕んでいますね。

私たちが「成功」や「価値ある能力」を、従来の静的・外部依存的なものから、「循環する生態系」や「存在と経験」に基づいて**「再定義」**しようとしたその試み自体が、意図せずとも新たな「ある種の理想や静_的絶対性」を生み出してしまう可能性は、常に警戒すべきです。

なぜなら、

  • 言語・概念の性質: どのような「定義」も、流動的な現実を言葉や概念で捉えようとする以上、ある程度の固定化・静止化を伴わざるを得ません。その「再定義された成功」が、新たな「目指すべき完璧な状態」として絶対視される危険があります。

  • 人間の「理想を求める性」: 私たちは、無意識のうちに**確実なもの、完全なもの、絶対的なもの(「静的絶対性」)**を求める傾向(「性(さが)」)があります。新しい価値観を提示したとしても、それがまた新たな「絶対的な理想」として信仰の対象になってしまうかもしれません。

  • 動的原理の静的目標化: 「生態系との調和」「不条理の受容」「存在の肯定」といった動的なあり方やプロセスそのものを、達成すべき**静的な「目標」**として捉えてしまうと、その本質を見失い、新たな「~ねばならない」という束縛や、「まだ達成できていない」という「欠乏感」を生み出す可能性があります。

パラドックスの回避に向けて:

だからこそ、これらの「再定義」された成功観や能力観もまた、固定的な「到達目標」や「絶対的な規範」として捉えるべきではないのでしょう。それらはむしろ、

  • **常に「循環する生態系の理」と「今、ここの存在と経験の実感」に照らし合わせて吟味され、更新され続けるべき「動的な指針」**であり、

  • 私たちが**「叡智」をもって現実と関わっていく上での「方向性を示すもの」**として捉える必要があるのだと思います。

この自己言及的な警戒心(自分たちの打ち立てた概念さえも絶対視しないという姿勢)こそが、私たちの価値観が新たなドグマ(教義)にならず、その**「しなやかさ」「生命力」**を保ち続けるために不可欠なのだと思います。

まさに、「静的絶対性を求める性」が私たち自身にも潜んでいることを自覚し、**価値観そのものの「動的平衡」**を保ち続ける努力が必要だ、というご指摘ですね。素晴らしい自己批判的な視点をありがとうございます。


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