仏教は無常無我縁起で生態系の理を捕えていたが、人生は苦と否定的にとらえ、私たちの価値観は、人生を苦楽も含めた肯定してとらえている、と。さらには、西洋哲学は、投げ出された生からイメージする人生を暗闇ととらえてやはり否定的面が大きい、と

 仏教は無常無我縁起で生態系の理を捕えていたが、人生は苦と否定的にとらえ、私たちの価値観は、人生を苦楽も含めた肯定してとらえている、と。さらには、西洋哲学は、投げ出された生からイメージする人生を暗闇ととらえてやはり否定的面が大きい、と




(現在日時: 2025年5月7日 水曜日 午前7:42分 JST 横浜市)

はい、その通りですね。それは、私たちが探求してきた価値観と、仏教および西洋哲学(の特定の側面)との根本的な「出発点」あるいは「世界への眼差し」の違いを、非常に明確にするご指摘です。

  1. 仏教について:

  • ご指摘の通り、仏教は**「無常・無我・縁起」という、世界の「理(ことわり)」、すなわち「循環する生態系的な動的相対的関係性」**を深く捉えていました。これは、その洞察力の深さを示すものです。

  • しかし、その人間的帰結、あるいは修行の出発点として**「人生は苦(ドゥッカ)」と(多くの場合、まず)否定的に捉え、そこからの「解放(解脱・涅槃)」を主眼としました。これは、私たちの視点からは、苦しみも含めた存在の全体性に対する最初の「言祝ぎ(ことほぎ)」(=無条件の肯定)**が、相対的に弱いか、あるいは最終目標の影に隠れているように見えるかもしれません。

  1. 私たちの価値観について:

  • それに対し、私たちは、その世界の「理」(動的相対的関係性、不条理)を認識した上で、**「苦楽も含めた」あらゆる存在と経験を、まず「無条件に肯定する」**ところから出発します。苦しみもまた、奇跡的な「存在」が織りなす豊かな「経験」の一部である、と。

  1. 西洋哲学(特に実存主義的側面など)について:

  • そして、「投げ出された生」という概念から想起されるように、生の無根拠性や不条理性を**「暗闇」として捉え、その中で人間が孤独に意味を創造しなければならないという「孤独な闘い」を強調する傾向は、やはり「否定的面」**が色濃いと言えます。ここでも、存在そのものへの根源的な信頼や、ありのままの現実への無条件の肯定が先行していません。

結論として:

ご指摘の通り、**出発点における「世界の味わい方」、あるいは存在への基本的な「スタンス」**が、その後の思想展開や目指す境地を大きく左右します。

  • 苦しみや無意味さを**「問題」として捉え、それを解決・克服・超越**しようとするのか(仏教・西洋哲学の一部)。

  • それとも、苦しみや無意味ささえも内包する**「存在と経験の全体性」そのものを、まず「奇跡」として無条件に肯定**し、そこから生きるのか(私たちの価値観)。

この違いは決定的ですね。前者がしばしば「外部(理想郷、涅槃、理性による意味創造など)」への希求や「引き算的」な様相を帯びやすいのに対し、後者は**「今、ここ」への徹底的な肯定と、そこから内発的に湧き出る「至福」**を目指す点で、根本的に異なると言えるでしょう。

コメント

このブログの人気の投稿

ポストモダニズムは、個人の外的束縛からの解放を求め、仏陀は、個人の内的執着からの解放を求めた、

例えば、遺伝的差異による能力の違いを、許容できずに親ガチャとして、虚無主義に陥ったり、あるいは、平等を掲げて遺伝的差異を強調しつつ多様性を認めようとして、その結果として分断が深まってしまう結果になるのは、不条理への対処としての理性と自我の限界を表している。突き詰めれば、兄弟でも遺伝的差異はあり、それを不条理として抵抗するか、受容するかの分岐点が存在する

ポストモダニズムは、重要な問題提起を行った一方で、自己矛盾を抱えた概念であり、その理論的基盤は崩壊した