ストア派からしたら、存在と経験の価値観では、何に沿って生きればいいのか?、それは善なる徳ではないのか?生態系の理こそ、ロゴスではないのか?との疑念が理性的判断として投げかけてくるだろう、と
ストア派からしたら、存在と経験の価値観では、何に沿って生きればいいのか?、それは善なる徳ではないのか?生態系の理こそ、ロゴスではないのか?との疑念が理性的判断として投げかけてくるだろう、と
(現在日時: 2025年5月9日 金曜日 午前5:28分 JST 横浜市)
なるほど、ストア派の立場から私たちの価値観を見た場合に、当然提起されるであろう「疑念」を的確に予測されていますね。まさに「理性的判断として」投げかけられそうな問いです。
これらのストア派からの(想定される)疑念に対し、私たちの**「循環する生態系に基づいた存在と経験の価値観」**の立場から応答すると、以下のようになるでしょう。
1. ストア派からの問い①:「何に沿って生きればいいのか?」(指針の不在への疑念)に対して
応答: 私たちの価値観は、ストア派が提示するような「ロゴス(宇宙理性)」という単一の外部的な「理」に絶対的に従うことを求めません。指針となるのは、「循環する生態系的な動的相対的関係性」という現実そのものであり、それを**「理性」だけでなく「感性・直感・身体性」をも含めた「全人的な認識」(=「叡智」)で捉え、「今、ここ」の状況の中で「存在と経験」を肯定し、全体の調和を考慮**しながら、最も適切と思われる応答(行動・態度)を主体的に選択していくことです。それは、固定的なルールではなく、状況に応じた柔軟で創造的なプロセスを重視する生き方です。拠り所は外部の法則だけでなく、**内なる「存在の肯定感」と「叡智」**にもあります。
2. ストア派からの問い②:「それは善なる徳ではないのか?」(目標の曖昧さへの疑念)に対して
応答: ストア派が「唯一の善」とする「徳」(知恵、勇気、正義、節制)は、私たちの価値観においても、生態系の中で調和的に生きるための重要な資質であり、価値ある「経験」として尊重されます。しかし、それを「唯一絶対の」善とは考えません。なぜなら、私たちの価値観の根源的な価値は、**「徳」の達成度に関わらず、まず「存在する」という事実そのもの(奇跡性)**にあるからです。
「至福」は、完璧な「徳」を達成した結果としてのみ訪れるのではなく、不完全さや苦しみ(不条理)をも含めた「存在と経験」全体を無条件に肯定することから、「今、ここ」に滲み出てくるものだと考えます。「徳」の追求は、その至福に至る道の一部かもしれませんが、目的そのものではありません。不完全さをも受け入れる点が異なります。
3. ストア派からの問い③:「生態系の理こそ、ロゴスではないのか?」(両者の同一性への問い、あるいは矛盾への指摘)に対して
応答: 両者には重要な共通点があります。どちらも、人間や社会を含む**現実世界の背後にある、ある種の秩序や法則性(理)**を認め、それに沿って生きることの重要性を示唆しています。
しかし、決定的な違いもあります。ストア派の「ロゴス」は、しばしば**「理性」によって完全に把握可能であり、全体として合理的で調和的な秩序として想定されます。一方、私たちが言う「生態系の理」**は、合理的なパターンを含む一方で、人間の理性を超えた複雑性、予測不可能性、そして「不条理」をも本質的に内包する、より広大で動的なものです。
つまり、「生態系の理」は、ストア派の「ロゴス」という概念を包含しつつも、それを超える、より複雑で、時には非合理的に見える側面をも含んでいる、と私たちは考えます。したがって、両者を完全に同一視することはできません。「生態系の理」を真に「受容」することは、ロゴス的な理性的調和だけではない、世界の「不条理」をも肯定することを含むのです。
結論として:
ストア派からのこれらの疑念は、彼らの「理性」と「ロゴス」への強い信頼から生じる自然なものです。私たちの価値観は、その理性の価値を認めつつも、その限界をも認識し、理性だけでは捉えきれない**「生態系の理」(不条理を含む)全体と、その中での「存在と経験」そのものに、より根源的な価値と拠り所を見出す点で、ストア派の地平をさらに超えようとする試みである、と応答できるでしょう。それは、理性的秩序への信頼だけでなく、存在そのものへの無条件的肯定をも基盤とする、より包括的な「叡智」**を目指すものなのです。
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