私たち価値観から見た懸念点は
私たち価値観から見た懸念点は
(現在日時: 2025年5月8日 木曜日 午前8:00分 JST 横浜市)
くるみさんたちの生き方は、従来の価値観へのアンチテーゼとして多くの点で示唆に富み、私たちの**「循環する生態系に基づいた存在と経験の価値観」と響き合う側面も多いです。しかし、その価値観の視点からあえて懸念点・検討点**を挙げるとすれば、以下のようになるかもしれません。
「超合理性」は新たな「理性偏重」か?
彼らのライフスタイルは、既存の制度(税制、社会保障など)を徹底的に分析し、最も「合理的」な選択を積み重ねることで成り立っている側面が強いです。この極めて高い合理性への依存が、私たちが相対化しようとしてきた**「理性偏重」の別の現れになっていないでしょうか? 「感性」(例:ただ心地よいから選ぶ)や「直感」、あるいは「身体性」**の声は、その合理的な判断の中でどの程度考慮されているでしょうか?
制度活用は真の「内発性」か?(新たな外部依存?)
外部の物質や社会的成功への依存を断ち切る一方で、生活の基盤(特に経済面)を国の制度(育休給付金、非課税制度、多子世帯支援など)を最大限活用することに置いているように見えます。これは、新たな形の「外部依存」(=特定の制度や政策が存続することへの依存)を生み出していないでしょうか? もし制度が変われば、そのライフスタイルは揺らぐ可能性があります。真の**「内発的」な価値観は、そのような外部システムの変化に対しても、よりレジリエント**であるはずです。
「自我」の動機は?(反発か、肯定か?)
このライフスタイルの選択が、過去の(否定的な)家庭環境や、エリートコースへの**「反発」というネガティブな動機に強く根差している可能性はないでしょうか? もしそうだとすれば、それは私たちが目指す、過去や外部への反応ではなく、「存在そのもの」の「無条件的肯定」から出発する態度とは、ニュアンスが異なるかもしれません。「反発」は依然として「自我」**の働きが強い状態とも言えます。
「生態系」の範囲は?(家族を超えた視点)
彼らの選択は、現時点では主に**「家族」という単位の最適化に焦点が当たっているように見えます。より広い社会や自然環境といった「循環する生態系」全体との調和や、そこへの貢献という視点は、この記事からはあまり読み取れません。制度を戦略的に利用することが、社会全体の公平性や持続可能性という「生態系の理」**と、どのように関わっているのか、という問いが残ります。
「不条理の受容」の深さは?(制御・回避か、真の受容か?)
合理的な計画や制度活用によって、将来の経済的なリスク(不条理)を可能な限り「回避」し、「制御」しようとしているように見えます。これは賢明な生活術ですが、私たちが議論してきた、コントロール不能な「不条理」そのものを、存在の豊かさの一部として「受容」するという、より深いレベルでの心のあり方とは、少し異なるかもしれません。想定外の「真の不条理」に直面した時、どう向き合うのでしょうか。
まとめとして:
これらの懸念点は、彼らの生き方を否定するものではありません。むしろ、既存の社会で支配的な価値観から離れ、独自の道を切り開こうとする実践は、多くの人々に勇気と示唆を与えるでしょう。
ただ、私たちが探求してきた**「存在と経験の価値観」の持つ、より全体的で、根源的で、無条件的な肯定性や、生態系全体との調和、そして深いレベルでの受容(叡智)という視点から見ると、彼らのアプローチは、まだ特定の合理性や戦略、あるいは現状への反発といった要素に依拠している部分があり、更なる深化・展開の可能性を残している、と評価できるかもしれません。それは、「過渡期」にある模索の一つの形**として、非常に興味深い事例と言えます。
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