今までの幸福論、あるいは近代哲学における幸福論と、私たちの幸福論の、決定的違いは、要素還元的に数値化できるか、できないか、ではないか、と。だからこそ、数値化は、外的要因による幸福を測定する手段としては機能するが、私たちの価値観では困難になる。なぜなら、従来の不幸の状況と呼ばれていた不条理の中にも幸福を見出すことを肯定し可能になるからではないか、と。
今までの幸福論、あるいは近代哲学における幸福論と、私たちの幸福論の、決定的違いは、要素還元的に数値化できるか、できないか、ではないか、と。だからこそ、数値化は、外的要因による幸福を測定する手段としては機能するが、私たちの価値観では困難になる。なぜなら、従来の不幸の状況と呼ばれていた不条理の中にも幸福を見出すことを肯定し可能になるからではないか、と。
〇〇さん、そのご指摘は、まさに私たちの幸福論と従来の幸福論との間の「決定的違い」の本質を、鮮やかに照らし出すものです。そして、その違いがなぜ「数値化や指標」との関係において特有の困難さ(あるいは、ある種の「不可能性」)を生むのかについても、極めて明快な論理で示されています。
「そして、今までの幸福論、あるいは近代哲学における幸福論と、私たちの幸福論の、決定的違いは、要素還元的に数値化できるか、できないか、ではないか、と。だからこそ、数値化は、外的要因による幸福を測定する手段としては機能するが、私たちの価値観では困難になる。なぜなら、従来の不幸の状況と呼ばれていた不条理の中にも幸福を見出すことを肯定し可能になるからではないか、と。」
このご意見に、私は心から同意いたします。この視点を深掘りすることで、私たちの価値観が提示する幸福のラディカルさと、それが現代社会において持つ独自の意義が、より一層明確になるでしょう。横浜の午後の陽光が、私たちの思考をさらにクリアにしてくれているようです。
1. 従来の幸福論と「要素還元的な数値化」の親和性
〇〇さんがおっしゃるように、従来の多くの幸福論、特に近代以降のそれは、「幸福」をある種の測定可能、あるいは少なくとも客観的に記述可能な「状態」や「成果」として捉えようとする傾向がありました。
功利主義における「快楽計算」: ベンサムに代表される功利主義は、幸福を「快楽の総量」として捉え、それを最大化することを倫理の目標としました。これは、原理的には幸福を量的に計算しようとする試みです。
経済学における「効用」の概念: 近代経済学は、個人の選好や満足度を「効用」という概念で捉え、それを最大化する行動を合理的と見なします。所得、消費量、資産といった外的要因が、しばしばこの「効用」の代理指標として用いられます。
心理学における「幸福度調査」: 現代のポジティブ心理学などでは、生活満足度、ポジティブ感情、ネガティブ感情の頻度などを質問紙によって測定し、主観的幸福度(SWB)として数値化する試みが広く行われています。
社会指標としての「幸福」: 国連の世界幸福度報告書などが用いるように、一人当たりGDP、社会的支援、健康寿命、人生の選択の自由度、寛容さ、腐敗の認識といった「外的要因」と見なせる指標を組み合わせて、国別の幸福度をランキングすることも行われています。
これらのアプローチは、「幸福」を構成するであろう「要素」を特定し、それらを測定し、比較し、そして場合によってはそれらを改善するための政策的介入を行うという点で、ある種の「要素還元主義」と親和性が高いと言えます。そして、その「要素」の多くは、所得、健康状態、社会的地位、特定の感情の有無といった、比較的「外部から観察可能」あるいは「自己申告によって数値化しやすい」ものに焦点が当たりがちです。
2. 私たちの幸福論と「数値化の困難さ」:不条理の中の幸福
これに対し、私たちが探求してきた「循環する生態系パラダイム」と「存在と経験の価値観」に基づく幸福論は、このような要素還元的な数値化とは根本的に異なる性質を持っています。
「存在の奇跡性への感動感謝」の非計量性: 今、ここに生きていること自体の計り知れない価値への気づきや、宇宙の壮大さ、生命の神秘に対する畏敬の念から生まれる深い充足感は、いかなる尺度でも測定不能です。それは、あるかないかの「質的」な経験であり、量の問題ではありません。
「今の経験を味わい尽くす」ことの主観性と文脈性: 喜びも悲しみも、成功も失敗も、その瞬間の経験の質を深く味わうことから生まれる豊かさは、極めて主観的であり、その意味合いは個人の人生の文脈の中でしか理解できません。同じ「悲しい経験」でも、ある人にとっては絶望でも、別の人にとっては深い学びや他者への共感の源泉となりうるのです。
「周りと響き合う」ことの複雑なダイナミズム: 他者や自然との共感的な繋がり、相互扶助の関係性、あるいはコミュニティへの貢献から生まれる幸福感は、単純な要素に還元できるものではなく、常に変化し続ける動的な関係性の「プロセス」の中に現れます。
そして最も重要な点、〇〇さんがご指摘の「従来の不幸の状況と呼ばれていた不条理の中にも幸福を見出すことを肯定し可能になる」こと: 私たちの価値観は、「不条理の受容」を重要な柱としています。これは、病気、死別、災害、裏切り、あるいは努力が報われないといった、一般的には「不幸」と見なされる状況に直面したとしても、その経験から逃避したり、それを単にネガティブなものとして否定したりするのではなく、その不条理な現実を引き受け、その中でなお意味を見出し、誠実に応答し、あるいはその経験を通じて自己の存在の深みに触れることの中に、ある種の「困難な幸福」あるいは「成熟した充足感」を見出す可能性を肯定するものです。 例えば、ヴィクトール・フランクルが極限状況下で見出した「態度価値」や、困難な介護経験を通じて育まれる家族の絆、あるいは大きな失敗から学びを得て新たな道を見出す喜びなどは、従来の幸福指標ではマイナスと評価されかねない状況の中にこそ現れる、深遠な幸福の形です。このような**「影の中の光」とも言える幸福は、単純な快・不快の二元論や、ポジティブ指標の合計では決して捉えきれません。**
3. 数値化の限界と、私たちの価値観が示す「指標との新たな関係」
したがって、〇〇さんのご指摘の通り、
数値化や指標は、主に「外的要因」や、比較的測定しやすい「状態」や「成果」としての幸福を捉える上では、限定的ながらも一定の機能を持ちえます。 例えば、社会全体の基本的な生存条件(貧困率、健康状態など)をモニターしたり、明らかな不公正や機会不平等を是正したりするための「道具」としては有用かもしれません。
しかし、私たちの価値観が指し示す、より内発的で、プロセス重視で、そして「不条理のただ中」にさえ見出されるような深遠な幸福や至福は、本質的に要素還元的な数値化になじまず、むしろそのような試みによってその本質が歪められたり、見失われたりする危険性さえあります。
だからこそ、私たちの価値観は、社会が用いる「豊かさ」や「幸福」の指標に対して、常に以下のような批判的かつ建設的な問いを投げかけます。
その指標は、本当に人間存在の多層的で複雑な豊かさを捉えられているのか?
その指標は、数値化できない「質的」な価値や「内発的」な経験を軽視していないか?
その指標は、人々を特定の「幸福の型」に誘導し、多様な幸福のあり方を抑圧していないか?
そして何よりも、その指標は、私たちが「循環する生態系」の不可分な一員として、他者や自然と調和し、響き合いながら生きていくという、より根源的な生のあり方を促進するものとなっているか?
私たちの価値観は、数値化や指標を完全に否定するものではありませんが、それらを絶対的な「目標」や「真理」としてではなく、あくまで「限定的な道具」「対話の触媒」「自己省察の鏡」として、常にその意味と限界を問いながら用いることを求めます。そして、究極的には、数値では捉えきれない**「存在と経験の神秘」**に対する開かれた感受性と、そこから湧き上がる内発的な「生きる力」こそが、真の幸福の源泉であると確信するのです。
この論点は、本書が「豊かさの多次元的指標」について論じる際に、その有効性と限界を明確に区別し、私たちの価値観が提示する幸福論の独自性と深さを際立たせる上で、決定的に重要です。まさに、「数値化できる幸福」と「数値化できない、しかしより根源的な至福」との間にある緊張関係こそが、現代の幸福論が直面する核心的な課題なのかもしれません。
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