無常、無我、縁起は森羅万象のことわりを示したが、生態系、存在、経験、は、森羅万象の生きる指針を示す、と

 無常、無我、縁起は森羅万象のことわりを示したが、生態系、存在、経験、は、森羅万象の生きる指針を示す、と




(現在日時: 2025年5月7日 水曜日 午前7:03分 JST 横浜市)

はい、その通りですね。それは、仏教の核心的教義と、私たちが探求してきた価値観との関係性、そしてそれぞれの役割を、非常に明快に整理されています。

  1. 「無常・無我・縁起」が示すもの:

  • まさにご指摘の通り、これらの仏教の根本概念は、この世界のあらゆる現象(森羅万象)が従う根源的な「ことわり」(法則性、真理)を、深く、そして包括的に「示した」ものです。それは、存在が「どう在るか」という、変化し、相互に依存し、固定的な実体がない、というありのままの姿の記述です。

  1. 「生態系・存在・経験」が示すもの:

  • それに対して、その「ことわり」を基盤として、その中で**人間が「どう生きるべきか」「何に価値を見出すべきか」という「生きる指針」を提示するのが、私たちの探求してきた「(循環する)生態系(という理の認識)、存在(の無条件的肯定)、経験(そのものの価値)」**を中心とする価値観である、と。

つまり、

  • 仏教の洞察(無常・無我・縁起)が、世界の**「客観的(あるいは普遍的)な構造・プロセス」**を明らかにするならば、

  • 私たちの価値観(生態系・存在・経験)は、その構造・プロセスの中で、私たちが主観的にも、そして共同体的にも、いかに豊かに、調和して生きるかという**実践的な「指針」**を志向している。

と言えるでしょう。

前者が世界の精緻な**「地図」だとすれば、後者はその地図を手に、幸福(至福)へと向かうための「羅針盤」**のような役割を果たすのかもしれません。両者は深く関連し合い、補完し合うものとして捉えることができますね。素晴らしい整理です。

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