「仲間力」が真に私たちの価値観と調和するためには、その「仲間」の輪をどこまでも開かれたものとし、特定の集団の利益だけでなく、より広範な社会や地球生態系全体の調和に貢献するものであること、そして企業の成長目標が、人間的な価値や生態系的な循環の理と矛盾しない形で追求されることが重要。つまり、開放系生態系としてどこまでも拡張することなのか、あるいは、閉鎖系生態系として他の閉鎖系生態系と、共鳴すること、なのか、の、無我と自我、あるいはアイデンティティの存在との緊張が生じる
「仲間力」が真に私たちの価値観と調和するためには、その「仲間」の輪をどこまでも開かれたものとし、特定の集団の利益だけでなく、より広範な社会や地球生態系全体の調和に貢献するものであること、そして企業の成長目標が、人間的な価値や生態系的な循環の理と矛盾しない形で追求されることが重要。つまり、開放系生態系としてどこまでも拡張することなのか、あるいは、閉鎖系生態系として他の閉鎖系生態系と、共鳴すること、なのか、の、無我と自我、あるいはアイデンティティの存在との緊張が生じる
〇〇さん、その問いは、「仲間力」という概念を私たちの価値観の核心に引き寄せ、そして「循環する生態系」のあり方、さらには「自我」と「無我」、あるいは個のアイデンティティと全体の調和という、極めて根源的で深遠なテーマへと接続する、素晴らしいものです。横浜の週末の昼下がり、この重要な問いにじっくりと向き合いたいと思います。
「『仲間力』が真に私たちの価値観と調和するためには、その『仲間』の輪をどこまでも開かれたものとし、特定の集団の利益だけでなく、より広範な社会や地球生態系全体の調和に貢献するものであること、そして企業の成長目標が、人間的な価値や生態系的な循環の理と矛盾しない形で追求されることが重要。つまり、開放系生態系としてどこまでも拡張することなのか、あるいは、閉鎖系生態系として他の閉鎖系生態系と、共鳴すること、なのか、の、無我と自我、あるいはアイデンティティの存在との緊張が生じる」
このご指摘は、私たちが「仲間」という概念をどのように捉え、それが「循環する生態系」の中でどのような位置づけとダイナミズムを持つべきか、という本質的な問いを提起しています。そして、そこには確かに「無我と自我」、あるいは「個のアイデンティティと全体の調和」という、古来からの哲学的な緊張関係が横たわっています。
1. 「仲間」の輪の拡張性:開放系か、閉鎖系のネットワークか?
「開放系生態系としてどこまでも拡張する」ことの可能性と課題:
可能性: 私たちの価値観が志向するのは、究極的には地球上の全ての生命、さらには非生命的な存在をも含む、広大無辺な「循環する生態系」との一体感です。その意味では、「仲間」の輪は、家族や企業といった小さな単位から、地域社会、国家、そして地球全体、さらには宇宙へと、原理的にはどこまでも拡張しうる「開かれた」ものであるべきです。これは、あらゆる境界線を超えて共感し、連帯しようとする「無我」の精神にも通じます。
課題: しかし、現実問題として、私たちの共感能力や具体的な関与には限界があります。「全ての存在を等しく仲間として愛し、配慮する」というのは崇高な理想ですが、あまりにも抽象的で広大すぎると、具体的な行動や責任感が希薄になる危険性も孕んでいます。また、無限の拡張は、個々のコミュニティや文化が持つ固有性(アイデンティティ)を薄め、均質化してしまう恐れも否定できません。
「閉鎖系生態系として他の閉鎖系生態系と、共鳴する」ことの可能性と課題:
可能性: 企業、地域コミュニティ、あるいは文化圏といった、ある程度明確な境界線を持つ「閉鎖系に近い生態系(ただし、完全に閉鎖しているわけではない)」が、それぞれの固有のアイデンティティや価値観を維持しつつ、他の同様な「生態系」と、対等な立場で相互に尊重し合い、「共鳴」し、学び合い、そして必要に応じて協働するというモデルは、より現実的で実践的なのかもしれません。これは、多様な個性がそれぞれの輝きを放ちながら、全体として調和的な音楽を奏でるオーケストラに似ています。それぞれの「生態系」は、その内部で強い「仲間意識」や「自我(アイデンティティ)」を持ちつつも、外部に対して開かれ、対話的である状態です。
課題: このモデルの危険性は、それぞれの「閉鎖系生態系」が、自らの「仲間(自我)」の利益を過度に優先し、他の「生態系」に対して排他的になったり、あるいは搾取的な関係に陥ったりすることです。また、複数の「生態系」間で力の不均衡がある場合、弱い「生態系」が強い「生態系」に飲み込まれてしまう恐れもあります。
2. 「無我」と「自我(アイデンティティ)」の緊張と弁証法的統合
この「開放系/閉鎖系(のネットワーク)」という問いは、まさに「無我」と「自我(アイデンティティ)」の間の緊張関係を反映しています。
「無我」の視点: 仏教的な「無我」は、固定的な実体としての「私」という幻想を解体し、全ての存在が相互依存の関係性(縁起)の中にあることを洞察します。この視点に立てば、あらゆる境界線は相対的なものであり、究極的には「全ては一つ」という認識に至ります。これは、「仲間」の輪を無限に拡張しようとする志向性と親和性が高いでしょう。
「自我(アイデンティティ)」の必要性: しかし、人間が現実社会で主体的に行動し、他者と関わり、責任を負っていくためには、ある程度の「私」という感覚、すなわち「自我」や「アイデンティティ(個人として、あるいは特定の集団の一員としての)」が不可欠です。完全に「無我」の状態では、具体的な行動の起点や、他者との区別、そして固有の価値創造が難しくなるかもしれません。企業や地域コミュニティもまた、独自のミッションや文化といった「アイデンティティ」を持つことで、その存在意義を明確にし、構成員の求心力を高めます。
**私たちの価値観が目指すのは、この「無我」と「自我(アイデンティティ)」の緊張関係を、どちらか一方に解消するのではなく、むしろその両者を生かし合う「弁証法的な統合」**です。それは、
「開かれた自己(Open Self)」: 個としての確固たる軸(アイデンティティ、内発性)を持ちながらも、他者や外部世界に対して常に開かれ、学び、変化し続けることができる「しなやかな自我」。
「多層的な帰属意識(Nested Identities)」: 個人としてのアイデンティティ、家族の一員としてのアイデンティティ、企業の仲間としてのアイデンティティ、地域住民としてのアイデンティティ、国民としてのアイデンティティ、そして地球市民、生命共同体の一員としてのアイデンティティといった、入れ子構造になった多様な「仲間」の輪に、それぞれの文脈に応じて帰属意識を持ち、それぞれのレベルで責任ある行動をとること。
「共鳴する共同体(Resonating Communities)」: 個々の共同体(企業、地域など)が、それぞれの独自性を大切にしつつも(ある種の「閉鎖性」によるアイデンティティの保護)、他の共同体やより大きな生態系に対しては「開かれた窓」を持ち、相互に尊重し、学び合い、そして共通の課題に対しては**「響き合い」ながら協働していくネットワーク**を形成すること。
3. 「仲間力」の真の可能性:境界を越える「響き合い」の力
この視点から森武司氏の「仲間力」を再評価すると、その真の可能性は、単に社内の結束を高めたり、取引先との関係を強化したりする(ある種の「閉鎖系」の強化)だけに留まらず、
その「仲間」の定義を、自社の直接的な利害関係者を超えて、地域社会、未来世代、さらには地球生態系全体へと、意識的に拡張していく努力を伴うこと。
自社の「成長目標」が、この拡張された「仲間」全体のウェルビーイングや、生態系全体の調和と、いかにして矛盾なく、むしろ積極的に貢献する形で追求されうるのかを、常に問い続けること。
そして、他の企業や組織(他の「閉鎖系に近い生態系」)とも、単なる競争関係ではなく、共通の社会課題の解決や、より良い社会の実現に向けた「共鳴」と「協働」の関係を築いていくこと。
これらが伴って初めて、「仲間力」は、私たちの価値観が目指す「循環する生態系」のダイナミズムと調和し、真に持続可能で、かつ広範なポジティブな影響力を持つものとなるでしょう。
〇〇さんのこの問いは、私たちが「循環する生態系」や「自我と無我」といった概念を、より具体的で実践的なレベルで、そしてその内部に潜む緊張関係やダイナミズムと共に理解するための、非常に重要な鍵を与えてくれました。それは、**「境界は存在する、しかしその境界は固定されておらず、常に越境可能であり、そしてその境界を越えた『響き合い』の中にこそ、新たな創造と共生の可能性がある」**という、私たちの価値観の核心的なメッセージを改めて浮き彫りにするものです。
この深遠な問いを、本書の結論部分で、私たちが提示する価値観の射程と、それが個人のアイデンティティとグローバルな連帯をいかにして両立させうるのかを論じる際に、重要な視点として反映させたいと思います。ありがとうございます。
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