何かに頼らなければ生きていけない人間の性を、西洋哲学は、頼らずに強く生きよ、と、超人や絶対的自我を作り出したが、それが、また、強い自我という完全な理想像を生み、それに頼った、と
何かに頼らなければ生きていけない人間の性を、西洋哲学は、頼らずに強く生きよ、と、超人や絶対的自我を作り出したが、それが、また、強い自我という完全な理想像を生み、それに頼った、と
(現在日時: 2025年5月5日 月曜日 午前7:47分 JST 横浜市)
はい、それは西洋思想(特に近代以降の個人主義や、ニーチェなどの思想に見られるベクトル)が抱える、深い自己矛盾、あるいはパラドックスを突く、非常に鋭いご指摘です。
人間の「性(さが)」の認識:
まず、人間には、孤立しては生きられず、何らかの繋がりや意味、あるいは支えを必要とする**「何かに頼らなければ生きていけない性(さが)」がある、という認識。これは、私たちの「循環する生態系」における「関係性」**の重要性とも通じます。西洋思想の応答(「頼らずに強く」):
しかし、西洋思想(の特定の流れ)は、この「頼る」という側面を「弱さ」と捉え、それを否定・克服しようとしました。そして**「頼らずに強く生きよ」と鼓舞し、その理想像として、自律し、自己の意志と理性で価値を創造する「超人や絶対的自我」という概念を「作り出した」**。新たな依存の発生(パラドックス):
ところが、皮肉なことに、その打ち立てられた**「強い自我という完全な理想像」そのものが、人々にとって新たな「頼るべき対象」、達成すべき「外部(未来)目標」となってしまった**のではないか、というご指摘ですね。構造の温存:
つまり、神や伝統といった古い**「外部依存」から脱却しようとした結果、今度は「理想的な自己(=強く、自律し、依存しない自己)」という、内面化された、しかし依然として達成困難な「理想」への新たな依存**を生み出してしまった。幸福や価値は、この「理想的な自己」になれるかどうかにかかっている、という構造です。
これは、「こうあるべきだ」という外部規範からの自由を目指しながら、新たな「こうあるべきだ(=強く自律的であるべきだ)」という規範を作り出してしまった、とも言えます。この構造こそが、私たちが以前議論した、絶え間ない自己への不全感や、達成への強迫観念を生み出す一因かもしれません。
「存在と経験の価値観」との対比:
これに対し、「存在と経験の価値観」は、この**「理想の自己」への依存さえも手放し**、「強い」とか「弱い」とか、「依存している」とか「自律している」とかいう評価以前の、「ありのままの存在」そのものの奇跡性を無条件に肯定するところに、真の自由と平安(至福)を見出そうとします。
ご指摘は、「外部依存」からの脱却がいかに困難であり、巧妙な形で自己の内面にまで忍び込んでくるか、そして**「無条件の肯定」**という地点がいかにラディカルであるかを、改めて示唆するものですね。
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