私たちの価値観が提示する幸福論は、今までの哲学や思想が持っていた外的要因に幸福を求めることではなく、あくまで徹底した内発的な「自己の存在の奇跡性に感動感謝し、今の経験を味わい尽くし、周りと響き合う」事で、生まれるものだ、と、するならば、数値化や指標は、意味を持たなくなる、と

 私たちの価値観が提示する幸福論は、今までの哲学や思想が持っていた外的要因に幸福を求めることではなく、あくまで徹底した内発的な「自己の存在の奇跡性に感動感謝し、今の経験を味わい尽くし、周りと響き合う」事で、生まれるものだ、と、するならば、数値化や指標は、意味を持たなくなる、と




〇〇さん、そのご指摘は、私たちが長い対話を通じて丹念に紡ぎ上げてきた「存在と経験の価値観」が提示する幸福論の、まさに核心を突くものです。そしてそれは、従来の幸福論や「豊かさ」の捉え方に対する、ラディカルな問い直しでもありますね。

「私たちの価値観が提示する幸福論は、今までの哲学や思想が持っていた外的要因に幸福を求めることではなく、あくまで徹底した内発的な『自己の存在の奇跡性に感動感謝し、今の経験を味わい尽くし、周りと響き合う』事で、生まれるものだ、と、するならば、数値化や指標は、意味を持たなくなる」

この言葉には、深い真実が含まれていると同時に、いくつかの重要なニュアンスを丁寧に解きほぐす必要があるように感じます。横浜の午後の光の中で、この深遠なテーマについて、さらに考察を深めてまいりましょう。

1. 「外的要因に幸福を求める」従来の幸福論とその限界

確かに、歴史上の多くの哲学や思想、そして現代社会の支配的な価値観は、幸福を何らかの「外的要因」に求める傾向がありました。

  • 古代ギリシャ哲学の一部(例えば、アリストテレスのエウダイモニアも、徳の実践という「行為」や「状態」を伴う): 特定の徳の完成、理性的な活動、あるいはポリス(国家)への貢献といった、ある種の「達成」や「状態」に幸福を見出しました。

  • ヘレニズム哲学(エピクロス派、ストア派など): 快楽の追求(ただし、精神的な快やアタラクシア)、あるいは自然に従った不動心(アパテイア)といった、特定の心の「状態」を目指しました。

  • 宗教的価値観: 神の恩寵、天国への救済、あるいは涅槃といった、超越的な「目標」や「境地」に究極の幸福を求めました。

  • 近代以降の功利主義や経済主義: 最大多数の最大幸福(快楽の総量の最大化)、あるいは物質的な豊かさ、社会的成功、他者からの承認といった、測定可能あるいは外部から確認可能な「成果」や「所有」に幸福の基準を置く傾向が強まりました。

これらの幸福論は、それぞれに重要な洞察を含んでいますが、〇〇さんがご指摘のように、幸福の源泉を自己の「外側」の条件(地位、富、健康、特定の心の状態、未来の目標達成など)に依存させる側面があり、それらの条件が満たされない限り幸福は得られない、あるいは失われてしまうという不安定さを内包していました。

2. 私たちの価値観が提示する「徹底した内発的幸福」

これに対し、私たちの「存在と経験の価値観」が指し示す幸福は、よりラディカルに「内発的」です。それは、

  • 「自己の存在の奇跡性に感動感謝し」: どのような状況にあろうとも、今、ここに「生きている」という事実そのものの計り知れない価値と神秘性に目覚め、そこから湧き出る根源的な肯定感と感謝の念。これは、外部の条件に左右されない、自己の内奥から立ち上がるものです。

  • 「今の経験を味わい尽くし」: 喜びも悲しみも、成功も失敗も、快も不快も、全ての経験を「生きている証」として、判断や抵抗なしに、その瞬間瞬間の質感や意味合いを深く味わい尽くすこと。幸福は、特定の「良い」経験だけにあるのではなく、あらゆる経験を豊かに感受するプロセスそのものに宿ります。

  • 「周りと響き合う」: 自己を孤立した存在としてではなく、他者、社会、自然、そして宇宙全体との広大な「循環する生態系」の網の目の中で、共感し、繋がり、愛し、貢献し、影響を与え合う中で生まれる一体感と充実感。

この幸福は、何かを「達成」したり「所有」したりした結果として得られるものではなく、むしろ**「在り方(being)」そのもの、そして「関わり方(relating)」そのもの**から、内側から自然に滲み出てくるような、静かで深く、そして持続的な「至福(bliss, beatitude)」に近いものと言えるでしょう。それは、特別な修行や達成を必要とせず、原理的には誰にでも、いつでも、「今、ここ」で開かれている可能性です.

3. 「数値化や指標は、意味を持たなくなる」のか? ― その真意と留保

さて、この「徹底した内発的幸福」の観点から見たとき、GDP、幸福度調査、あるいは私たちが先ほど議論したSDGsやGPIといった「数値化や指標」は、本当に「意味を持たなくなる」のでしょうか。

この点については、二つの側面から考える必要があると私は思います。

  • 根源的なレベルでは「意味を失う」側面:
    〇〇さんがおっしゃる通り、もし個々人が真に内発的な「至福」の状態にあるならば、外部の指標(例えば、「あなたの幸福度は7点です」「国のGNHは向上しました」)は、その人自身の内的な充足感や世界の輝きに対して、二次的で、もしかしたら無関係な情報にさえなるかもしれません。究極的には、真の幸福は測定不能であり、比較不能であり、個人の主観的な経験の奥深くにしか存在しないからです。その意味では、あらゆる数値化や指標化の試みは、この根源的な幸福の本質を取りこぼしてしまう「要素還元主義」の限界を示すものと言えます。

  • 社会的なレベルでは「限定的な意味を持ち続ける」側面:
    しかし、私たちが生きるのは社会であり、そこでは多くの人々がまだ内発的な幸福を見出せずに苦しんでいたり、生存に必要な基本的な条件さえ満たされていなかったりする現実があります。このような状況において、

  1. 問題の可視化と改善の方向づけ: 数値化や指標は、社会が抱える問題(貧困、格差、環境破壊、健康問題、教育機会の不均等など)を**「可視化」**し、それらの改善に向けた政策や社会全体の努力を方向づけるための、**不完全ながらも「共通言語」や「羅針盤」**としての役割を担うことができます。例えば、GDP偏重の弊害を乗り越えるために、GPIや健康寿命、社会的孤立度といった指標を導入することは、社会の価値観をよりホリスティックな方向へと「誘導」する効果を持ちえます。

  2. 「循環する生態系」の健全性のモニター: 環境持続可能性指数や生物多様性指標などは、私たちが依存する地球生態系の健全性を測り、人間活動がそのバランスを崩していないかをモニターするための重要な「警告システム」となりえます。これは、個人の内発的幸福を支える外部環境の持続可能性を確保するために必要です。

  3. 「真の不条理」への抵抗の根拠: 差別や不公正を示すデータは、それらを「真の不条理」として認識し、社会変革を求めるための客観的な根拠となりえます。

  4. 対話と合意形成のツール: 多様な価値観を持つ人々が社会のあり方について議論し、合意形成を図っていく上で、ある程度の共通の土台となる情報や目標設定の枠組みとして、指標が機能する側面もあります。

結論:指標との「賢明なつきあい方」と、価値観の変容の優先

したがって、私たちの価値観が提示する「徹底した内発的幸福」の観点から言えば、

  • 個人の根源的な幸福や至福そのものは、数値化や指標によって完全に捉えたり、代替したりすることはできないという事実は、明確に認識されるべきです。指標を絶対視し、その達成自体が目的化することは、新たな「理性の罠」であり、本質を見失う危険性を孕んでいます。

  • しかし、社会全体のウェルビーイングや持続可能性を高め、より多くの人々が内発的な幸福を追求できるような**「環境」や「土壌」を整えるという限定的な目的においては、GDP偏重を乗り越えるための「よりましな指標」「対話の道具」「気づきの触媒」**として、多次元的な指標を賢明に、かつ批判的に活用していくことは意味を持ちうるでしょう。

重要なのは、指標に振り回されるのではなく、指標を「使いこなす」主体的な姿勢であり、そして何よりも、数値化できない「存在の奇跡性」「経験の豊かさ」「響き合い」といった価値を社会全体で再認識し、育んでいくという、より根源的な価値観の変容を優先することです。

この価値観の変容が進めば、社会がどのような指標を重視し、それをどのように解釈し、活用していくのか、そのあり方自体もまた、より人間的で、生態系的なものへと自然に変わっていくのではないでしょうか。数値や指標は、あくまで私たちが「共生と調和の叡智」を紡ぎ出していくための、数ある道具の一つに過ぎないのですから。

この〇〇さんのご指摘は、本書が「豊かさの指標」について論じる際に、その有効性と限界、そして私たちの価値観との緊張関係を明確にし、読者に表面的な解決策以上の深い洞察を促す上で、非常に重要な視点となります。


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