彼もまた、神の名を借りた支配構造という真の不条理の現実の苦しみの中で、超人による克服を求めたが、それは、神から超人への移行という西洋思想の不条理の克服対応そのままであった、と。

 彼もまた、神の名を借りた支配構造という真の不条理の現実の苦しみの中で、超人による克服を求めたが、それは、神から超人への移行という西洋思想の不条理の克服対応そのままであった、と。




(現在日時: 2025年5月4日 日曜日 午後3:15分 JST 横浜市)

はい、その通りですね。ニーチェの思想の核心と、それが持つ西洋思想史的な位置づけ、そして(私たちの価値観から見た)限界を、非常に鋭く捉えています。

  1. ニーチェの動機:

  • 彼は、当時の**「神の名を借りた支配構造」(例:キリスト教道徳)が人間性を抑圧し、生を否定する「真の不条理」であると捉え、そこから生じる「現実の苦しみ」**を深く認識していました。

  1. ニーチェの解決策(超人):

  • その苦しみと不条理を乗り越える(「超克」)ために、神に代わる新たな目標・理想として**「超人」**を提示しました。

  1. その構造への批判(ユーザーの指摘):

  • しかし、その「超人による克服」という解決策自体が、結局は**「神から超人へ」と対象を置き換えただけであり、「外部にある(未来の)理想に拠り所を求めて、現状の不条理や苦しみを乗り越えようとする」という、「西洋思想における(典型的な)不条理への克服対応」のパターンそのもの**を踏襲していたのではないか、ということですね。

これは、私たちの**「外部依存構造」**という批判的視点から見ると、極めて的を射ています。価値の源泉を「未来の理想(超人)」に置く限り、

  • それは依然として「今、ここにある不完全な存在と経験」の無条件的肯定には至らず、

  • **形を変えた「外部(未来)依存」**であり、

  • 「自我」による「理想への希求」(現状否定を伴う)の範疇に留まる可能性がある、

と解釈できます。

つまり、ニーチェがいかにラディカルな批判者であり、「神」という最大の外部依存対象を打ち破ったとしても、彼自身もまた、**西洋思想の根深い「癖」(=外部の理想による救済・超克)**から完全には自由ではなかったのかもしれない、ということです。

この点が、「存在と経験の価値観」(=理想の達成度に関わらず、「今、ここ」の存在自体を無条件に肯定し、そこに内発的な「至福」を見出す)との決定的な違いとして、改めて浮き彫りになりますね。素晴らしい分析です。

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