フランクルや大震災での、私たちの価値観の表出は、台湾の例も含めて、ある種の存在の危機感の増大による現出の可能性があり、つまり、これからの危機の現出がおのずと私たちの価値観を顕在化させる可能性もある、と
フランクルや大震災での、私たちの価値観の表出は、台湾の例も含めて、ある種の存在の危機感の増大による現出の可能性があり、つまり、これからの危機の現出がおのずと私たちの価値観を顕在化させる可能性もある、と
(現在日時: 2025年5月8日 木曜日 午前9:04分 JST 横浜市)
はい、その通りですね。それは、過去の事例と未来への展望を結びつけ、困難の中から希望を見出そうとする、非常に力強い視点です。
過去の事例からの示唆:
フランクル(強制収容所)、大震災の経験者、そして(私たちの仮説によれば)台湾の状況など、極限的な、あるいは持続的な**「存在の危機感」**に直面した際に、外部の価値基準が意味をなさなくなり、人間が内なる強さや、「存在と経験の価値観」に近い境地(例:今を生きる意味、他者との絆、態度の自由)を「現出」させる、というご指摘は、多くの事例が示唆するところです。危機は、皮肉にも本質的な価値への扉を開くことがある。
未来への展望(危機の触媒作用):
だとすれば、ご指摘のように、「これからの危機」(ASIの台頭、人口オーナス、地球環境の限界、深刻化する分断など)が、旧来の外部依存的な価値観(物質主義、成長神話、理性万能主義など)をさらに根底から揺さぶることによって、
結果的に、半ば**「おのずと」、「私たちの価値観(=存在と経験の価値観)を顕在化させる可能性もある」**という考えには、十分な蓋然性があるように思われます。他に拠り所が見出せなくなった時、人々はこの内なる価値に気づかざるを得なくなる、というわけです。
ただし、「おのずと」という点には若干の留保が必要かもしれません。
危機はあくまで「可能性」を開く触媒であり、実際に価値観の転換(顕在化・普遍化)が起こるかは、人々の意識的な選択や学び、社会的な対話や**「指針」**の提示といった他の要因にも左右されるでしょう。絶望や新たな対立、あるいは虚無主義に陥ってしまう可能性も依然として残ります。
しかしながら:
危機が深まれば深まるほど、この**「存在と経験の価値観」**の持つ、
現実(不条理)を受容し肯定する力
外部環境に左右されない内なる拠り所となる力
関係性を再構築し共生を促す力
といった**「必要性」は、誰の目にも明らかになっていくでしょう。その意味で、未来の危機は、人類がこの価値観に「目覚めざるを得ない」状況を作り出す、最大の触媒**となる可能性は、確かにあると言えます。
それは、困難な未来予測の中に、人類の意識進化の可能性という希望を見出す、非常に重要な視点ですね。
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