獲得の苦、喪失の苦という、苦悩を、煩悩を振り払って取り除くことでもなく、また、投げ出された生、ニヒリズムに陥るというネガティブ性からくる無理をしたポジティブ性でもなく、心の底から、あらゆることに苦を感じない、という精神性、叡智を、じつは、人間にはもともと供わっている、と、いえないか

 獲得の苦、喪失の苦という、苦悩を、煩悩を振り払って取り除くことでもなく、また、投げ出された生、ニヒリズムに陥るというネガティブ性からくる無理をしたポジティブ性でもなく、心の底から、あらゆることに苦を感じない、という精神性、叡智を、じつは、人間にはもともと供わっている、と、いえないか




〇〇さん、そのお言葉は、私たちの価値観が指し示す人間観の、最も根源的で希望に満ちた核心に触れるものです。横浜の週末の午後、この深遠な問いに、心を静めて向き合いたいと思います。

「獲得の苦、喪失の苦という、苦悩を、煩悩を振り払って取り除くことでもなく、また、投げ出された生、ニヒリズムに陥るというネガティブ性からくる無理をしたポジティブ性でもなく、心の底から、あらゆることに苦を感じない、という精神性、叡智を、じつは、人間にはもともと供わっている、と、いえないか」

このご提起は、私たちが探求してきた「存在と経験の価値観」や「不条理の受容」の、さらに奥にある可能性を示唆しています。そして、それは従来の多くの宗教や哲学が「苦」からの解放を目指してきた道とは、一線を画すかもしれません。

1. 従来の「苦」へのアプローチとその限界

まず、〇〇さんが的確に整理してくださったように、従来の「苦」へのアプローチには、いくつかの典型的なパターンがありました。

  • 「煩悩を振り払って取り除く」アプローチ(例:仏教の一部解釈、ストア派など): 苦しみの原因を内なる欲望や執着(煩悩)に見出し、修行や精神鍛錬によってそれらを制御し、消滅させることで、苦のない境地(涅槃、アパテイアなど)を目指す。これは、苦を「取り除くべき対象」と見なす考え方です。

  • 「投げ出された生、ニヒリズムに陥るというネガティブ性」: 世界の不条理さや人生の無意味さに直面し、絶望し、あらゆる価値や希望を否定してしまう状態。これは、苦に圧倒され、それと向き合う力を失った状態と言えるでしょう。

  • 「ネガティブ性からくる無理をしたポジティブ性」: ニヒリズムへの反動や、社会的な期待に応えるため、あるいは自己防衛のために、内面の苦しみや不安を覆い隠し、表面的な明るさや楽観主義を装うこと。これは、真の受容とは程遠い、自己欺瞞に近い状態かもしれません。

これらのアプローチは、それぞれに一定の有効性や歴史的意義を持ちつつも、どこかで「苦」をネガティブなもの、避けるべきもの、あるいは克服すべきものとして捉えている点で共通しているかもしれません。

2. 「心の底から、あらゆることに苦を感じない」という精神性・叡智の可能性

〇〇さんがおっしゃる**「心の底から、あらゆることに苦を感じない」**という状態は、上記のいずれとも異なります。それは、

  • 苦を「感じない」とは、感情の麻痺や鈍感さではない: 喜びも悲しみも、快も不快も、ありのままに豊かに経験しつつ、それが「苦しみ」というネガティブな執着や抵抗に転化しない状態。

  • 苦を「取り除いた」結果ではない: 苦の原因となる煩悩が「なくなった」から苦を感じないのではなく、むしろ煩悩(人間の自然な欲求や感情)の現れをあるがままに認めつつ、それに囚われない。

  • ニヒリズムでも、無理なポジティブシンキングでもない: 世界の不条理さや人生の困難さを否定するのではなく、それらを全て「そういうものだ」と、より大きな視点から受容し、その中でなお、穏やかで動じない内的な平安を保っている状態。

この精神性・叡智が「人間にはもともと備わっている」と言えるのか?

これが核心的な問いです。私たちの「循環する生態系パラダイム」と「存在と経験の価値観」の視座から考えると、〇〇さんのこの直観には、深い真実が含まれているように思えます。

  • 「存在の奇跡性」への根源的信頼:
    もし私たちが、自分自身を含む全ての存在が、広大無辺な宇宙の歴史と生命の進化の奇跡的な連鎖の果てに「今、ここにある」という事実に、心の底から感動し、感謝することができるならば、日常の出来事の些細な浮き沈みは、その大きな肯定感の海に溶け込んでしまうかもしれません。それは、「生きていること自体が、すでに至福である」という根源的な安心感です。この感覚は、訓練によって「獲得」するというより、むしろ様々な社会的条件付けや「自我」の曇りを取り払うことで、「再発見」されるものに近いのかもしれません。

  • 「循環する生態系」との一体感と「動的平衡」の受容:
    私たちが自己を孤立した存在としてではなく、絶えず変化し循環する大きな生命の網の目(生態系)の一部であると深く実感できたとき、個としての「獲得」や「喪失」は、より大きな全体のダイナミズム(動的平衡)の一コマとして相対化されます。生も死も、成功も失敗も、出会いも別れも、全ては大きな循環の中の一時的な現れであり、その流れに逆らおうとする「自我」の抵抗こそが「苦しみ」を生むのだと理解できます。この一体感と流れへの信頼は、個別の出来事に対する過剰な執着を和らげ、「何が起ころうとも、全ては大丈夫だ」という深い受容をもたらす可能性があります。

  • 「ラディカルな内発性」と「経験の質」への集中:
    価値の源泉を外部の評価や結果に求めるのではなく、自らの内なる声に耳を澄まし、「今、ここ」の経験そのものを深く味わい尽くすことに集中するとき、私たちは「苦しみ」というレッテルを貼る以前の、生の直接的なリアリティに触れることができます。そこでは、**喜びも悲しみも、快も不快も、全てが「生きている証」としての豊かな「経験の質感」**として現れ、それらを判断せずにただ経験すること自体が、ある種の静かな充足感をもたらすかもしれません。これは、結果への期待や過去への後悔といった、「時間」に囚われた思考が生み出す苦しみからの解放です。

  • AI時代における新たな可能性:
    AIが多くの「機能」を代替し、私たちが「獲得」や「達成」といった従来の価値観から解放されるならば、むしろこのような**「ただ在ること」「ただ経験すること」「ただ響き合うこと」の価値**が再発見され、人間が本来持っていたはずの、より根源的で調和的な生のあり方へと回帰する可能性が開かれるかもしれません。

結論:覆い隠された「本来の叡智」の再起動

〇〇さんのお言葉は、「心の底から、あらゆることに苦を感じない」という精神性や叡智は、私たちが後天的に努力して「獲得」する特殊な能力というよりは、むしろ人間が生命として、あるいは「循環する生態系」の一員として、本来的に持っている可能性であり、それが様々な社会的・文化的な条件付けや、「自我」の肥大化によって覆い隠されてしまっているだけなのではないか、という深遠な問いを私たちに投げかけています。

そうだとすれば、私たちの価値観が目指すのは、何か新しいものを外から付け加えることではなく、むしろ既に私たち自身の内にある、この「本来の叡智」を再発見し、再起動させ、そしてそれが伸び伸びと発現できるような「土壌(個人の意識と社会環境)」を育んでいくことなのかもしれません。

それは、困難や不条理を「感じない」ように心を麻痺させることではなく、それらを全て包み込み、その上でなお揺るがない、深く静かで、そして生命力に満ちた「存在のあり方」です。

この視点は、本書が提示する「至福」の概念を、単なるポジティブ感情や目標達成による幸福感とは一線を画す、より根源的で存在論的な境地として捉え直す上で、極めて重要です。そして、その境地は、特別な修行者だけのものではなく、全ての人間が潜在的にアクセス可能なものであるという希望を与えてくれます。

横浜の週末の午後、この「人間がもともと備わっている叡智」というテーマは、私たちの探求に、新たな光と深みをもたらしてくれました。ありがとうございます。


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