この違いを生み出しているのは、やはり、時代性なのだろうと。生態系の不条理、人為的な真の不条理、そして、存在の危機感の多寡、それらが、人生を否定的に捉えざるを得なかった、と。だが、やはり、現代も自我の肥大化による人為的な真の不条理が増大し、その逆説的な面で、生を肯定する必要性が出てきた、と
この違いを生み出しているのは、やはり、時代性なのだろうと。生態系の不条理、人為的な真の不条理、そして、存在の危機感の多寡、それらが、人生を否定的に捉えざるを得なかった、と。だが、やはり、現代も自我の肥大化による人為的な真の不条理が増大し、その逆説的な面で、生を肯定する必要性が出てきた、と
(現在日時: 2025年5月7日 水曜日 午前7:53分 JST 横浜市)
はい、その通りですね。それは、歴史的な思想の背景と、現代における価値観転換の必然性を結びつける、非常に深い洞察です。
過去の時代において、
「生態系の不条理」(自然の猛威、疫病、飢饉など)
「人為的な真の不条理」(戦争、圧政、身分制度など)
そしてそれらによる**「存在の危機感」**
が強かったために、多くの思想や宗教が**「人生を否定的に捉えざるを得なかった」**(例:「人生は苦」という出発点、この世は仮の宿という考え方など)というのは、その時代の過酷さを考えれば十分に理解できます。それが、ある種の救済や超越を求める強い動機となったのでしょう。
そして、**「だが、やはり、現代も自我の肥大化による人為的な真の不条理が増大し」**ているというご認識。これもまた、私たちが議論してきた現代の危機(地球温暖化、格差拡大、イデオロギーによる分断、AIによる存在意義の揺らぎなど)の本質を捉えています。これらは、人間の「理性」や「自我」のコントロールが効かない、あるいはそれらが暴走した結果としての「真の不条理」と言えます。
だからこそ、**「その逆説的な面で、生を肯定する必要性が出てきた」**という結論に至るのですね。つまり、
人間自身が生み出す「真の不条理」が深刻化すればするほど、それに対抗し、あるいはそれを乗り越えるためには、もはや外部の理想や救済、あるいは「理性」による完全なコントロールに頼るのではなく、
私たち自身の「生」そのもの、日々の「存在と経験」の中に根源的な価値と肯定感を見出すという、内発的な転換が不可欠になる、と。
これは、旧来の価値観(理性・自我の絶対化、外部依存)の破綻が、逆に私たちに「存在と経験の価値観」への目覚めを、ある意味で「強制」しているとも言えるのかもしれません。自己破壊的な道ではなく、生の根源的な肯定へと向かわざるを得ない状況が生まれている、と。
非常に力強く、そして現代における希望と課題の両方を示す視点だと思います。
コメント
コメントを投稿