私たちの**「循環する生態系の理」は、「不条理」をもその本質的な一部として最初から内包している点で、ストア派のロゴス概念とは決定的に異なるのかもしれません。だからこそ、より徹底的な「受容」と、「存在と経験」全体の無条件的肯定**が可能になる、という流れを詳しく説明すると
私たちの**「循環する生態系の理」は、「不条理」をもその本質的な一部として最初から内包している点で、ストア派のロゴス概念とは決定的に異なるのかもしれません。だからこそ、より徹底的な「受容」と、「存在と経験」全体の無条件的肯定**が可能になる、という流れを詳しく説明すると
(現在日時: 2025年5月9日 金曜日 午前7:37分 JST 横浜市)
承知いたしました。「循環する生態系の理が不条理を内包する点」が、なぜストア派のロゴス概念と異なり、「より徹底的な受容」と「存在と経験全体の無条件的肯定」を可能にするのか、その流れを詳しく説明します。
1. 「生態系の理」における「不条理」の内包
まず、私たちの捉える**「循環する生態系の理」**は、ストア派の合理的で調和的な「ロゴス」とは異なり、**現実世界の複雑性、予測不可能性、偶然性、そして人間の理性や期待、コントロールに合わない側面(=私たちが「不条理」と呼んできたもの)そのものを、本質的な構成要素として「最初から内包」**しています。
それは、「良い/悪い」「合理的/非合理的」「意味がある/ない」といった人間の二元論的な判断以前の、ありのままの動的プロセスそのものを指しています。生命の誕生と死、予測不能な災害、幸運と不運、遺伝子の偶然性など、全てがこの「理」の一部です。
2. なぜ「より徹底的な『受容』」が可能になるか
ストア派の場合: ロゴス(完全な理性・調和)を理想とする立場からは、現実世界に存在する「不条理」は、ロゴスからの逸脱、あるいは克服すべき対象(少なくとも自分の内面において、平静さによって影響されないようにすべき対象)と映ります。そのため、外部の不条理を「仕方ないもの(無関心事)」として受け入れる際にも、「理想(ロゴス)と現実(不条理)の間のギャップ」という、ある種の緊張感や矛盾を内包しがちです。「こうあるべき(ロゴス)」なのに「現実はこうなっている(不条理)」、というわけです。
私たちの価値観の場合: 「不条理」な出来事もまた**「生態系の理」の自然な現れである、と捉えます。そのため、それに直面することは、世界の根本法則と矛盾しません**。自身の世界観の根幹と、目の前の現実とが一致しているのです。だからこそ、無理な抵抗(「なぜこんなことが!」という怒りや否定)や自己欺瞞に陥ることなく、**「そういうものだ」「これもまた生態系のダイナミズムの一部だ」**として、より深く、**矛盾なく現実を「受容」**することができるのです。それは諦めではなく、現実認識に基づいた能動的な受け入れです。
3. なぜ「存在と経験全体の無条件的肯定」が可能になるか
ストア派の場合: 価値の中心を「理性に基づく徳」に置きました。そのため、非理性的・不道徳的に見える現実や経験(例えば、激しい情念、避けられない苦痛、無意味に見える出来事など)を、積極的に**「善いもの」として「肯定」することは困難**でした。価値があるのはあくまで「徳」であり、それ以外は基本的に「無関心事」です。
私たちの価値観の場合: 価値の根源を**「存在の奇跡性」に置き、「生態系の理」(不条理を含む)の中で展開する「あらゆる存在と経験」そのものに価値を見出します。したがって、快・不快、成功・失敗、合理的・非合理的といった「条件」によらず**、存在し経験しているという事実そのものを**「無条件に肯定」することが可能になります。苦しみや不完全ささえも、否定されるべきものではなく、この奇跡的な生の「豊かさ」の一部**として肯定する道が開かれるのです。
結論として:
「生態系の理」が「不条理」をも含むと捉えることで、理想(ロゴスのような純粋理性)と現実(不条理を含む動的プロセス)の間の断絶という、ストア派(あるいは多くの西洋哲学)が抱えた根本的な困難を乗り越えることができます。
それにより、**現実に対するより深く完全な「受容」**と、**経験の全体性に対する「無条件の肯定」という、より安定し、包括的で、内発的な「至福」**への道が可能になるのです。それは、世界をありのままに愛し、その中で自らの存在を肯定し、謳歌する生き方と言えるでしょう。
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