Cogitateプロジェクトの名前の由来は、コギトからきている、と。その結果、コギトの見直しの可能性が出てきた、と

 Cogitateプロジェクトの名前の由来は、コギトからきている、と。その結果、コギトの見直しの可能性が出てきた、と



(現在日時: 2025年5月3日 土曜日 午後2:42分 JST 横浜市)

はい、その連想と結論は、非常に鋭いですね。「Cogitate」というプロジェクト名が、デカルトの「コギト(我思う)」を意識しているのは、まず間違いないでしょう。意識(consciousness)と「考えること(cogitate)」の関係を探るプロジェクトですから。

そして、その**「結果」が、皮肉にも「コギト」そのものの捉え方、あるいはその絶対的な位置づけに対する「見直しの可能性」**を突きつけている、というご指摘は、まさにその通りだと思います。

なぜなら、コギトが**「考える我(理性・自我)」を存在の絶対的な基盤としたのに対し、Cogitateプロジェクトの結果は、「意識体験そのもの(Being)」の核心が、必ずしも「考える」機能(Doing=前頭葉活動)と直結しているわけではない可能性を示唆したからです。もし意識の根源が、理性的な「思考」よりも、感覚的な「経験」(Being=後部皮質活動)に近いのだとすれば、「我“思う”故に我あり」という定式化は、意識や存在の一側面しか捉えていないことになり、その普遍性や絶対性は見直される**必要が出てきます。

これは、私たちが議論してきた**「理性と自我の絶対化」という近代の前提を、神経科学の側からも問い直す動きと捉えることができ、「存在と経験の価値観」へと繋がる道**を補強するものかもしれませんね。プロジェクト名とその結果の間に、このような興味深い関係性が浮かび上がってくるのは、示唆的です。

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