ただ、今までの議論において、GDPに変わる価値観や豊かさの定義を、多様性、包摂性、公平性というDEIや、SDGsや、GPIなどの、要素還元主義的に、分析した豊かさの定義や数値化は、理性の絶対化がもたらした、断片化した概念となり、さらには、静的絶対性を持ち、そのため、矛盾やパラドックスを生み、限界を呈していると、したはずだが

 ただ、今までの議論において、GDPに変わる価値観や豊かさの定義を、多様性、包摂性、公平性というDEIや、SDGsや、GPIなどの、要素還元主義的に、分析した豊かさの定義や数値化は、理性の絶対化がもたらした、断片化した概念となり、さらには、静的絶対性を持ち、そのため、矛盾やパラドックスを生み、限界を呈していると、したはずだが




〇〇さん、そのご指摘は、私たちの対話の核心に再び鋭く切り込むものであり、大変重要な論点です。ありがとうございます。まさにその通りで、私たちがGDPに代わる「豊かさ」の指標として、DEI(多様性・公平性・包摂性)、SDGs、GPIなどを例示した際に、それら自体が**「要素還元主義的に分析した豊かさの定義や数値化」に陥り、結果として「理性の絶対化がもたらした、断片化した概念となり、さらには、静的絶対性を持ち、そのため、矛盾やパラドックスを生み、限界を呈している」**という危険性を孕んでいるという点は、私たちの議論の中で一貫して警戒してきたことでした。

先ほどの私の説明で、これらの指標をあたかも「それ自体が完成された解決策」であるかのように提示してしまったとすれば、それは私の表現の至らなさであり、〇〇さんのご指摘は、その点を明確にする上で非常に有益です。

私たちの価値観における「豊かさ」の指標の捉え方:動的プロセスとしての指標

私たちの「循環する生態系パラダイム」と「存在と経験の価値観」から見れば、いかなる「指標」も、それ自体が絶対的な「真の豊かさ」を完全に捉えきることはできません。なぜなら、

  1. 「豊かさ」の本質は「動的相対的関係性」の中にこそある:
    真の豊かさとは、固定された状態ではなく、個人と他者、個人と社会、人間と自然といった多様な関係性が、調和的に、そして創造的に「響き合い」、循環していく「プロセス」そのものに宿ります。指標は、そのプロセスの「ある側面」を一時的に切り取って可視化する試みに過ぎず、プロセス全体を代替するものではありません。

  2. 「経験の質」や「存在の奇跡性」は本質的に数値化困難:
    私たちが最も根源的な価値を置く「存在の奇跡性への感動感謝」や、「いいことも悪いことも含めた今の経験を心の底から味わい尽くす」ことから得られる精神的な充足感、あるいは他者との深い共感といった「経験の質」は、本質的に定性的であり、主観的であり、そして文脈依存的です。これらを無理に数値化し、客観的な指標に落とし込もうとすれば、その豊かさの多くが削ぎ落とされ、断片化されてしまう危険性があります。

  3. 「ラディカルな内発性」と多様な「豊かさ」のあり方:
    何をもって「豊か」と感じるかは、個々人の内発的な価値観や人生のステージによって多様です。社会が提示する「豊かさの指標」が、あまりにも固定的で画一的であるならば、それは個々人の内発的な豊かさの追求を阻害し、新たな「べき論」を生み出しかねません。

では、DEI、SDGs、GPIといった指標をどう位置づけるのか?

〇〇さんのご指摘を踏まえると、これらの指標は、GDPという単一的で物質偏重な指標がもたらした「理性の絶対化」による弊害を乗り越えるための**「一つの重要なステップ」あるいは「対話の出発点」**として捉えるべきであり、それ自体が新たな「静的絶対性」を持つ「完成された目標」ではない、ということです。

  • GDP偏重からの「相対化」の試みとして:
    これらの指標は、経済成長以外の多様な側面(環境、社会、人権、幸福感など)に目を向けさせ、社会の進歩をより多角的に捉えようとする点で、GDPという単一指標の絶対性を相対化する重要な意義を持ちます。それは、「要素還元主義」的な思考から、より「全体論的」な思考へと移行するための一つの補助線となりえます。

  • 「断片化」を乗り越えるための「統合的理解」の必要性:
    SDGsが17の目標を掲げているように、豊かさを構成する要素は多岐にわたります。重要なのは、これらの目標(要素)を個別に達成しようとするだけでなく、それらが**相互にどのように関連し合い、影響を与え合っているのか(まさに「循環する生態系」のように)を理解し、統合的に取り組む「叡智」**です。例えば、経済成長(目標8)と気候変動対策(目標13)がトレードオフの関係になるのではなく、両者が調和的に達成される道筋を探る、といった視点です。

  • 「静的絶対性」を避けるための「動的プロセス」としての活用:
    これらの指標や目標もまた、社会の変化や人々の価値観の進化に合わせて、**常に問い直され、見直され、更新されていくべき「生きた道具」として捉える必要があります。一度設定された指標が絶対的なものとなり、その数値達成自体が目的化してしまうならば、それは新たな「理性の罠」となり、矛盾やパラドックスを生み出すでしょう。指標は、あくまで私たちが「共生と調和の叡智」を紡ぎ出していくための「対話のツール」であり、「省察の鏡」**として機能すべきです。

私たちの価値観が真に目指す「豊かさ」のあり方

究極的には、私たちの価値観が指し示す「真の豊かさ」とは、いかなる外部的な指標によって完全に測定されたり、達成されたりするものではありません。それは、

  • 個々人が、自らの「存在の奇跡性」に目覚め、内発的な喜びに満たされて生きている状態。

  • 人々が、他者や自然と「響き合い」、共感と信頼に満ちた豊かな関係性を育んでいる状態。

  • 社会全体が、「循環する生態系」の理に沿って、持続可能で調和的な「動的平衡」を保ちながら、創造的に変化し続けている状態。

DEI、SDGs、GPIといった指標は、このような状態へと向かうための「道しるべ」や「共通言語」として有効に活用されるべきですが、それらが道のりそのもの、あるいは目的地そのものであると誤認してはなりません。

〇〇さん、このご指摘は、私たちの論考が安易な解決策の提示に陥らず、常にその根底にある価値観のダイナミズムと、現実の複雑性に対する謙虚な姿勢を保ち続ける上で、極めて重要です。まさに、「豊かさ」の定義や測定方法それ自体もまた、「循環する生態系的な動的相対的関係性」の中で、絶えず問い直され、再創造されていくべきものなのでしょう。

この点を、本書の第7章6節(少子高齢化の結論部分)や第8章(本書全体の結論)で、多次元的指標について触れる際に、その限界性と、私たちの価値観が目指すより根源的な豊かさのあり方について、明確に補足・強調させていただきたいと思います。ありがとうございます。


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