GNHという概念も、幸福を数値化して幸福量を増大させる、という、ある種の功利主義の面を醸し出した、と

 GNHという概念も、幸福を数値化して幸福量を増大させる、という、ある種の功利主義の面を醸し出した、と



〇〇さん、そのご指摘は非常に鋭く、GNH(国民総幸福量)という概念が持つ内実と、それが実際に運用される際に現れうる側面について、功利主義とのアナロジーを用いることで、その本質的な課題を的確に捉えていますね。

「GNHという概念も、幸福を数値化して幸福量を増大させる、という、ある種の功利主義の面を醸し出した、と」

この言葉は、GNHがGDPに代わるオルタナティブな「豊かさ」の指標として注目された一方で、その方法論や目指す方向性において、皮肉にもそれが批判しようとしたはずの量的・計算的な思考の枠組みから、完全には自由ではなかった可能性を示唆しています。

私たちの「循環する生態系パラダイム」と「存在と経験の価値観」の視座から、この「功利主義的な側面」について、さらに考察を深めてみましょう。

1. GNHと功利主義の構造的類似性

  • 「幸福の総量」という発想:
    ジェレミ・ベンサムに代表される古典的功利主義は、「最大多数の最大幸福」を社会の目標とし、幸福を「快楽の総量」から「苦痛の総量」を差し引いたものとして、原理的には計算可能で最大化すべき対象と考えました。
    GNHもまた、心理的幸福、健康、教育、文化、環境、生活水準など、多様な領域における「幸福度」を測定し、それらを統合して「国民総幸福量」という一つの指標で示そうとします。これは、構成要素は異なるものの、社会全体の「幸福の総和」あるいは「平均値」を高めようとする点で、功利主義的な「幸福量の増大」という発想と構造的な類似性を持っています。

  • 「幸福」の客観化・指標化への志向:
    功利主義が「快楽計算」というアイデアを生んだように、GNHもまた、幸福を構成するであろう様々な「ドメイン(領域)」と「インジケーター(指標)」を設定し、それらを調査し、数値化し、経年変化を追跡しようとします。これは、主観的で捉えどころのない「幸福」という概念を、できる限り客観的で測定可能なものとして捉え、政策的な介入の対象としようとする「理性」の働きです。

  • 「結果」としての幸福の重視:
    功利主義は、行為の善悪をその「結果」として生じる快楽や幸福の量によって判断する帰結主義の一形態です。GNHもまた、様々な政策や社会経済的条件が、最終的に国民の「幸福量」という「結果」にどのような影響を与えるかを重視する傾向があります。これにより、幸福に至る「プロセス」や、個々人の内発的な「経験の質」そのものよりも、測定可能な「状態」や「成果」としての幸福が前景化しやすくなります。

2. 「功利主義的側面」がもたらすGNHの課題と、私たちの価値観とのずれ

GNHがこのような「功利主義的側面」を帯びるとき、それは私たちが「存在と経験の価値観」で目指す幸福論とは、いくつかの重要な点でずれが生じる可能性があります。

  • 「幸福」の要素還元主義と質的側面の喪失:
    幸福を多様なドメインや指標に分解し、それらを数値化して集計しようとするアプローチは、必然的に「幸福」という全体的で有機的な経験を、断片化された「要素」の総和として捉えることになります。しかし、私たちの価値観が重視する**「存在の奇跡性への感動感謝」や「経験を味わい尽くす」ことから生まれる内的な充足感、あるいは「周りと響き合う」ことの喜びといった、質的でホリスティックな幸福感**は、このような要素還元的な分析や数値化の過程で、その本質的な豊かさや深みが削ぎ落とされてしまう危険性があります。

  • 「最大幸福」の追求と個人の多様性・内発性の軽視:
    「国民総幸福量を最大化する」という目標は、一見すると望ましいものに思えます。しかし、それは「平均的な幸福」や「多数派の幸福」を優先し、個々人のユニークな幸福のあり方や、マイノリティの価値観、あるいは社会の主流から外れた内発的な生き方を軽視する方向に働く可能性があります。「最大多数」という言葉の裏には、常に「少数」の切り捨てという影が伴います。私たちの価値観は、画一的な幸福ではなく、個々人の「ラディカルな内発性」に基づく多様な幸福の形を尊重します。

  • 「幸福の手段化」と「管理社会」への懸念:
    もしGNHが国家の主要な政策目標となり、その数値を上げることが至上命題となれば、政府は国民の「幸福」を管理し、操作しようとするインセンティブを持つかもしれません。個人の自由な選択や私的な領域にまで「幸福増進」の名の下に介入が及び、結果として、より巧妙な形で人々を特定の行動へと誘導する「パターナリスティックな管理社会」へと繋がる危険性も否定できません。これは、私たちの価値観が警戒する「理性の絶対化」による新たな支配の形態です。

  • 「不条理の中の幸福」の捉えにくさ:
    私たちの価値観は、「従来の不幸の状況と呼ばれていた不条理の中にも幸福を見出すことを肯定し可能になる」という視点を持っています。しかし、GNHのような指標ベースのアプローチでは、病気、貧困、死別といった客観的に「ネガティブ」と見なされる状況は、幸福度を下げる要因としてしかカウントされにくいでしょう。そのような困難な経験を通じて得られる精神的な成長、他者への深い共感、あるいは生の有限性への自覚から生まれるような、逆説的で深遠な幸福のあり方は、功利主義的な「快楽/苦痛」の計算や、客観指標の集計からはこぼれ落ちてしまいます。

3. GNHの理念の再評価と、私たちの価値観が目指す方向

GNHの理念そのものは、GDP偏重の経済成長主義からの脱却を目指し、人間のウェルビーイングを多角的に捉えようとした点で、歴史的に重要な意義を持っています。それは、物質的な豊かさだけではない「豊かさ」への問いを社会に投げかけた点で、私たちの価値観とも響き合う出発点でした。

しかし、〇〇さんがご指摘のように、その実践において「幸福を数値化して幸福量を増大させる」という方法論が前面に出るとき、それはどうしても「功利主義的な側面」を帯びざるを得ず、結果として、私たちが最も大切にしたい**「存在そのものの価値」「経験の質」「ラディカルな内発性」「不条理の受容」**といった、数値化になじまない、より根源的で質的な幸福のあり方を見失う危険性を伴います。

私たちの価値観が提示する幸福論は、特定の「状態」や「量」としての幸福を目指すのではなく、むしろ**「自己の存在の奇跡性に感動感謝し、今の経験を味わい尽くし、周りと響き合う」という、絶え間ない「在り方」そのもの、そして「関わり方のプロセス」そのものに、内発的な充足感と意味を見出す**ものです。それは、外部の指標や他者との比較によって左右されるものではなく、どのような状況にあっても、自己の内側から湧き出る、創造的で開かれた生の営みです。

したがって、GNHのような試みから学ぶべき教訓は、「幸福」を外部から定義し、測定し、操作しようとするアプローチの限界を認識し、むしろ個々人が自らの内発的な幸福を探求し、育んでいくための「土壌」や「環境」を社会全体でいかに豊かにしていくか、という問いに、より一層意識を向けることではないでしょうか。それは、指標による「幸福の増大」ではなく、**「価値観の共有と深化」**を通じて、社会全体の精神的な成熟と、そこに生きる一人ひとりの「存在の輝き」を育んでいく道と言えるでしょう。

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